安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

何もしなくてもいいとは、赤子泣いてもフタ取るなではありません(頂いた質問)

すべて阿弥陀仏の力と聞くと、結局どうしたらいいのかわからなくなりました。本当に何もしなくていいのでしょうか?(頂いた質問)

全て阿弥陀仏の力と言いますのは、私を救うお働きは全て南無阿弥陀仏の中にあるということです。「何もしなかったら助かる」ということではありません。
何もしなかったらたすかると言うことならば、私を助けるお働きの南無阿弥陀仏が、まだ成就しないことになります。

米をご飯にするときは、炊飯器でお米を炊く必要があります。竈でご飯を炊いていた頃は、「はじめちょろちょろ 中ぱっぱ 赤子泣いてもフタ取るな」といわれていました。
「何もしないでいいのでしょうか?」というお尋ねをされる方は、この「赤子泣いてもフタ取るな」と同じように考えられているのだと思います。


つまり「もうすぐで助ける働きができあがるから、黙って待っていなさい」という本願だと思っておられるということです。

「赤子泣いてもフタ取るな」は、まだご飯が炊けていないということですが、本願はすでに成就しています。その成就したすがたを南無阿弥陀仏というのです。

かるがゆゑに、阿弥陀仏の、むかし法蔵比丘たりしとき、「衆生仏に成らずはわれも正覚ならじ」と誓ひましますとき、その正覚すでに成じたまひしすがたこそ、いまの南無阿弥陀仏なりとこころうべし。これすなはちわれらが往生の定まりたる証拠なり。されば他力の信心獲得すといふも、ただこの六字のこころなりと落居すべきものなり。(御文章4帖目8通・八か条・註釈版聖典P1179

本願はすでに成就して、私を助ける働きはすでに完成し、現在ただ今私に働いて下さっているのです。だから「いまの南無阿弥陀仏」と言われます。

この南無阿弥陀仏の中には、私の力は一つも入っていません。正確には、私がしたことは何も入っていません。
何もする必要が無いというのは、南無阿弥陀仏はすでに成就しているので、何も加える必要がないということです。

南無阿弥陀仏に、私の方から何かを加えたり、何も加えないで時間がある程度経過したら信心となるのではありません。南無阿弥陀仏に対して、赤子泣いてもフタ取るなで待っていたら信心になるのでもありません。
「されば他力の信心獲得すといふも、ただこの六字のこころなりと落居すべきものなり。」と言われているとおりです。
南無阿弥陀仏を疑いなく聞いたのが信心です。
待つことも必要ではありません。南無阿弥陀仏一つで、ただ今救われて下さい。