安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「我が儘ですが南無阿弥陀仏に対しては、僕を救ってくれないのなら殺して欲しいと思います。」(死人さんのコメント)

死人 2013/06/03 22:01
皆さん、山も山さん、どうもありがとう。

気に障ったら許してもらいたいが、南無阿弥陀仏は裕福な人々の奢侈品みたいな感じがして、僕みたいな底辺の人間には
高嶺の花のように感じている。
正に僕には「苦しい時の神頼み」の気持ちしかありません。
幼い頃から酷い環境で虐待され、レイプされ(こんな口調ですが女です)両腕は刃物の跡でボロボロ。
別人格が出ていたのかあまり記憶がないけど、マンションの屋上から飛び降りた時はもうそれ以外に方法がなかった。

阿弥陀仏に救われた人もいるのだと思うけど、それは選ばれた人なんだと思う。
仏様の言葉に耳を傾けることができる人。
自分を殺す必要もなく、生きていられる人。
我が儘ですが南無阿弥陀仏に対しては、僕を救ってくれないのなら殺して欲しいと思います。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20130602/1370122917#c1370264491

他にコメント下さった方有り難うございました。
コメント欄に書いていたことに続きを書きます。
いろいろとつらい環境であること知り、改めて死人さんが苦しい状態なのだと感じました。辛いことが多いからこそ死を望まれたのだと思います。


確かに私は、死人さんのようにマンションの屋上から飛び降りた経験はありません。ただ、死人さんが大変苦しんでいることはとても強く感じます。もちろん、「当事者と同じ苦しみが全部わかる」ということは仏様でない私にはできないことです。それでも、何度も死人さんのコメントを読んでいると、そんな苦しみをよく書いてくださったと感謝しています。


死人さんは、大きな苦しみ悩みを抱えているからこそ救いを求めておられるのだと思います。ただ人間が抱えられる苦しみの大きさには個人差があります。例えていえば、車の積載量のようなものです。軽四のトラックなら350キロまで載せることができますが、大型トラックなら10トンとかそれ以上載せることができます。
軽四くらいの積載量の車に、10トンの鉄骨を載せたらつぶれてしまいます。反対に、10トントラックに、350キロや500キロの荷物を載せてもなんともありません。同じような状況におかれても、自殺する人としない人の違いは苦しみの積載可能な重さの違いからきています。


死人さんが、自殺をしようとされたのも、苦しみの重さが積載量を超えてしまったためです。とはいえ、死人さんの苦しみはほかの多くの人でもとても抱え切れないものだと思います。しかし、死人さんが抱えておられる苦しみの中には、解決ができるものとできないものがまざっています。それらを、ごちゃまぜに抱えて身動きがとれないままになっている状態です。


そこで、阿弥陀仏が解決できることできないこと、死人さんが解決できることできないことを分類する必要があります。


阿弥陀仏ができることとできないことについて最初に書きます。
阿弥陀仏は、死人さんを救うことができます。しかし、救うといっても死人さんの抱える全ての問題を解決できるわけではありません。例えば、働けない体を働けるようにすることはできません。生活費を肩代わりすることはできません。消し去りたいと思っている過去を消すこともできません。
阿弥陀仏にできる「死人さんを救う」とは、死人さんを浄土に往生させることです。


そこで、死人さんが解決できることとできないことについて書きます。
死人さんが解決可能なことは、生活費がなくなるという問題です。これは、生活保護を初めとする公的支援や、NPOなどの専門家に相談することでなんとかなります。
次に死人さんが一人で解決できないことは、浄土に往生することです。他に、体調のことはよくわかりませんが、医療技術的に難しいことならばそれもできないことに入るかも知れません。苦しい過去を「なかったこと」として事実を消し去ることもできません。


解決できないことは、解決できないものとしてみていかなければなりません。
そして、死人さんが解決できない問題を、阿弥陀仏に解決して頂くのが、阿弥陀仏に救われるということです。それは、生と死の間で、「生きられないなら死ぬしかない」としか思えない死人さんが浄土往生を遂げるということです。生まれる前からも、同じように死と生を繰り返してきた死人さんだけでなくこの私も哀れにおもわれて、その生死から離れさせ、浄土に往生させるというのが阿弥陀仏です。


ただ、阿弥陀仏は浄土往生はさせてくださることと同時にそのお慈悲からいえば、解決できない問題も、死人さんとともに抱えていこうとされる仏様なのです。


ですから、仏様は私がたのまなくても荷物を背負ってくださる「不請の友」といわれます。

もろもろの庶類のために不請の友となる。群生を荷負してこれを重担とす。(大無量寿経_浄土真宗聖典 (註釈版) 第ニ版P7)
(現代語訳)
さまざまな人々のためにすすんで友となり、これらの人々の苦しみを背負い引き受け、導いていく。

http://goo.gl/TsSw5

阿弥陀仏にも死人さんにも解決できない問題は、死人さんが請求したり願ったりしなくても進んでその重荷を背負ってくださる「不請の友」が阿弥陀仏です。いろいろと苦しいことはあるけれども、抱え切れない分は阿弥陀仏が供に抱えてくださるのです。ともに抱えてくださるのではありますが、「重荷が無くなる」のではありません。それでも、一緒に浄土に往生しようと呼びかけ、励まして下さる南無阿弥陀仏を疑い無く聞けば、「今まで苦しかっただろうこれからは一緒だと」呼びかけられる声が南無阿弥陀仏となります。


決して選ばれた人のための南無阿弥陀仏ではありません。どれほど苦しみが深くても、また相対的に幸福でない人も、自分の価値が認められない人も、こちらからたのまなくても近づいて、「ともに浄土に往生しよう、無くならない重荷はともに抱えてやろう」と呼びかけられるのが不請の友である阿弥陀仏です。「不請の友」ですから、死人さんが「殺してくれ」と言っても「浄土往生はしたくない」といっても、それでも構わず浄土往生しようと呼びかけられるのが南無阿弥陀仏です。
決して高嶺の花ではありません。泥沼に飛び込んでくださるのが南無阿弥陀仏です。


阿弥陀仏がすぐに信じられなくても、少なくとも私は死人さんを心配している友達だと思ってください。しかし、最も心配し浄土往生を願われているのは阿弥陀仏です。南無阿弥陀仏を疑い無く聞く一つで、必ずただ今救われます。