安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

仏は常に不請の友(頂いた質問)

阿弥陀仏は私を救おうと働いておられるとは聞いていますが、日々の生活で直面する問題も自分にとっての大きな悩みです。その悩みは、阿弥陀仏は本当に分かって下さるのだろうかと思います。(頂いた質問)

阿弥陀仏は、大慈悲心をもって私を助けようと常に働いておられます。
それは、私の苦しみが阿弥陀仏の苦しみでもあるからです。

人間が、相手の苦しみを理解するのは、自分も同じような苦しみを体験した場合でないとなかなか本当の意味では分かることができません。
戦争体験者の苦しみは、実際に戦争を体験した人でないと理解することはできません。「大変でしたね」と思いますが、相手の方の苦しみは、同じ体験をしないと分かることはできません。
自分自身が、他人の苦しみを理解してようと努力をしても、病気一つでも、同じ病気にかかった人でないと分からないものです。
私は、3年前まで虫歯になったことがなく、歯医者に行ったこともありませんでした。子どもの頃、家族や友人が歯医者にいって痛かったということ聞いては「痛そうだなぁ」とは思っていました。しかし、実際にかかってみると、思った以上に痛いので驚いた覚えがあります。実際に体験しないと分からないものだと思いました。

内容は変わっても、人間はある程度までは他人の苦しみに共感することはできますが、本当の苦しみは当事者でないと分からないという経験をします。分かりたくても、自分の経験した以上のことは想像することしかできません。
立場が変われば、自分の感じている苦しみも、他人は本当は理解はできないのだろうと思うこともあるかと思います。
慈悲の悲とは、相手の苦しみを我が苦しみとして共感し悲しむ心です。大慈悲をもたれた阿弥陀仏にとっては、私の苦しみと同じ苦しみを常に感じておられるのです。
その上で、阿弥陀仏は私を本当の意味で救うのは、浄土に往って仏に生まれさせ、本当の意味で生死を超えた身にさせようとされているのです。

仏様だから、凡夫の苦しみなど分からないということではありません。仏様だから、私の苦しみをよく知られ、私と同じように苦しまれているのです。
仏は常に不請の友といわれます。不請の友とは、要請されなくても、仏様の方からよき友となってよりそってくださいます。特に苦しみ悩むものによりそい、連帯していかれるという意味です。
常に寄り添い、常に「必ず助けるから私にまかせよ」と、南無阿弥陀仏と名乗りをあげておられます。
無常の身ですから、まず急がれるのは浄土に生まれる身に救うことです。
ただ今救われます。