安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

打つ手無し、手をついて本願を聞いて下さい(音色さんのコメント)

音色さんからコメントを頂きました。有り難うございました。

その願いから逃げる心があれば、それは聞いていないのです。聞けといわれるのは、逃げるなと言うことです。疑いがあればまた聞けませんから、聞けと言われるのは、疑いを捨てよと言われているのです。

上記の部分が重要なのだとわかるのですが、私は逃げるしかできないし、疑いも捨てれません。
逃げてるということがどういうことかもわかりませんし、疑いとは何かもよくはわかってません。

救われている人をみると、やはりそれなりに真剣に弥陀の救いを求められた方ばかりです。
そのような殊勝な気持ちがおきそうもない私としては、打つ手が尽きた感じでどうしようもないというのが、今現在の心境です。(音色さんのコメント 2010/06/20 23:04)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20100617/1276740358#c

上記のコメントについて、また、複数の方からもコメントを頂きました。有り難うございました。

殊勝な気持ちが起きないと救われないのではありません。
どうしようもない私だから、阿弥陀仏は必ず助けるから私をたのみなさいと呼びかけられているのです。

煩悩具足のわれらは、いづれの行にても生死をはなるることあるべからざるを、あはれみたまひて願をおこしたまふ本意、悪人成仏のためなれば、他力をたのみたてまつる悪人、もつとも往生の正因なり。(歎異抄3章・註釈版聖典P834

「いづれの行にても生死をはなるることあるべからざる」のが煩悩具足の我らの姿です。どんな手を打ってみたところで、それで生死を離れることはできません。
音色さんがいわれる打つ手がないというのは、いろいろとご自分で考えたり試みられた結果、何も変わらなかったと言うことではないかと思います。
手段を講じるのではなく、手段は不要なものです。
生死を離れる手段を持ち合わせていない私を、哀れに思われて願を建てられたのが阿弥陀仏です。
ですから、本願他力をたのむ人が、浄土往生する人なのです。
無い袖は振れません。弥陀の御袖にすがるよりありません。
打つ手がないなら、その手をついて、弥陀の仰せを聞いて下さい。必ずただ今救われます。