安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

あてにするのは経験知ではなく仏智(頂いた質問)

以前に比べれば、阿弥陀仏の救いは現在の救いと思えるようになりました。しかし、まだ先のように思ってしまいます。(頂いた質問)

阿弥陀仏の本願を聞かれれば、現在ただ今救って下される本願だと言うことが分かります。
阿弥陀仏に救われることが、ほぼ不可能のように思っている人も多いのですが、そうではありません。

ただ今救う本願だとは思うけれども、自分のことと考るともう少し先のように思うのは、耳で聞いている本願と、自分を救う本願が別物になっているからです。
聞いている本願は、ただ今救う本願なのですが、そこに自分で疑いを加え、計らいで加工して、もう少しかかる本願にしてしまっているのです。ただ今救う本願だとは聞いているけれども、今までのことを思うと、「ただ今」では無いだろうという計らいです。
ただ今救う本願だと聞いているし、それには疑いはありませんという方もあります。しかし、そういう人は「ただ今救う本願」に、自分が過去に救われていない経験というフィルターを通して計らっているのです。
別の言い方をすれば、仏智よりも自分の経験知が勝るという考え方です。世の中のことは経験がものをいうことがありますが、浄土往生は、阿弥陀仏にしかわからないことです。わが身の経験知は、たのんだところで何の役にも立ちません。

自力のこころをすつといふは、やうやうさまざまの大小の聖人・善悪の凡夫の、みづからが身をよしとおもふこころをすて、身をたのまず、あしきこころをかへりみず(信鈔文意・註釈版聖典P707)

自力の心を捨ているというのは、自分の身がよいと思う心をすて、身をたのまず、悪い心を顧みないことだといわれています。
自分の経験知をあてにするのは、自分の経験知を仏智より優先する心です。わが身をたのんでいる心です。
今まで救われなかったから、ただ今は救われないという経験上の判断が正しければ、永遠に救われません。
ただ今救うという仰せですから、ただ今救われて下さい。