信心決定とか、信心獲得と聞いたときに、どうしても驚天動地の体験をするように思います。(頂いた質問)
親鸞聖人がいわれる「信心」と、一般にいわれる「(鰯の頭も)信心(から)」との違いからくるものだと思います。
親鸞聖人は信心について、無疑心のことだといわれました。
「信心」は、如来の御ちかひをききて疑ふこころのなきなり。(一念多念証文『註釈版聖典P678』)
「阿弥陀仏の本願を聞いて疑いないのが信心である」とは、一般にいわれる「信心」と違います。
親鸞聖人の教えを聞かれる際に、一般に使う言葉の意味のイメージを持ってくると、混乱することがあります。
国語辞書から調べる信心
信心(名) 加護を願って、神仏を信ずること。また、神仏を信ずる心。「ーが足りない」(大辞林より)
一般に言われる「信心が足りない」の「信心」は、上記の辞書にあるように、自らに対する利益を願って信じることをいいます。
仏教一般の「信」
信ー心を澄んだ清らかなものにする精神作用。ー唯識宗では善の心所の一に数える。その反対を不信(仏教学辞典)
仏教一般の「信」は、心を清らかにする作用や、働きをいいます。その反対は「不信」ですから、心を汚す作用をいいます。この意味で信心というと、心が清らかになることです。
阿弥陀仏の本願を聞いて疑いないのが信心ですから、自ら阿弥陀仏に救いを願うことでもなく、心が澄んで清らかになるのでもありません。
また、阿弥陀仏に自ら願いをかけていけば、ある日心が清らかになってしまうことでもありません。
必ず救うという阿弥陀仏の本願の呼びかけを疑いなく聞いているのが信心ですから、ただ今救われると言うことがあります。