安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

そのままとは?(3回目)「阿弥陀仏の救いは、そのままの救いと聞きますが、「そのまま」とはどういう事でしょうか?」(頂いた質問)

阿弥陀仏の救いは、そのままの救いと聞きますが、「そのまま」とはどういう事でしょうか?(頂いた質問)

前回のエントリーに続き「そのまま」について書きます。
そのままとは、仏の仰せのそのままということです。そのため親鸞聖人は「如是」という言葉が信心の相を表す言葉だといわれています。

三経の大綱、顕彰隠密の義ありといへども、信心を彰して能入とす。ゆゑに経のはじめに「如是」と称す。「如是」の義はすなはちよく信ずる相なり。(教行信証化土巻_浄土真宗聖典註釈版P398)
(現代文)
『無量寿経』・『観無量寿経』・『阿弥陀経』の三経に説く教えには顕彰隠密の義があるといっても、みな他力の信心を明らかにして、涅槃に入る因とする。そのため三経のはじめには、「如是」と示されているのである。「如是」という言葉は、善く信じるすがたをあらわしている。

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浄土三部経だけではありませんが、お経の始めに「如是」という言葉が使われています。如是我聞の「如是」です。

このように親鸞聖人が「如是」を「善く信ずる相なり」といわれるのは、曇鸞大師の浄土論註によられたものですが、大智度論には以下のようにあります。

是を以ての故に是の如くの義は仏法の始めに在り、善く信ずるの相なる故なり。(略)我が法は真実にして、余法は妄語なり。我が法は第一にして、余法は不実なりとする。これを闘諍の本と為す。今、是の如くの義は人に無諍の法を示す。他の所説を聞くに、説人に咎無し。是を以ての故に、諸の仏経の初に是の如くと称ふ

私の法が一番で、他は間違いであるというのは争いの本となります。それは、「我」というものが入っているからです。仏が説かれた教えであっても聞いた人も、そのように私見を入れていたのでは争いが生まれます。そこで、仏の説かれたそのままを「如是」といわれています。仏の説かれたそのままですから、聞いた私があれやこれやと自分の考えを差し挟むことはできるものではありません。ですから、善く信ずる相は「如是」となるのです。

阿弥陀仏の救いは、本願を信じる一つですが、その信心とはどのような相なのかといえば、「如是」であり、阿弥陀如来の仰せそのままに受け取った相ということになります。