安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

疑いないとは、何か智慧が身につくことではありません

信心について、前回の補足

疑いについて

一般的な仏教では、「疑」とは「仏教の真理に対して心がためらい決定しないこと(仏教学辞典より)」と定義されます。その反対「不疑」は、何が正しいか間違いかを明確に選んで、決定することであると見られていました。

そこで、疑心がないと聞くと、上記の「不疑」になるとイメージします。

生活上の場面で、「疑いない」という場合は、この「不疑」である場合が多いからです。
何かを決める際にためらったりする場面を疑いとすれば、何かを決定するというのは不疑となります。
その場合は、ためらったりしている時は分からなかったことが、判断できる材料がそろったり、分かったりして「これで決めた」と決定します。
ものを買うような場面では、「価格」「性能」などなどの情報を集めて、「どれを買ったらいいかわからない」状態から、「これにしよう」と決定します。こういうのは、「不疑」となります。

阿弥陀仏の本願に疑心ないということは、そのように阿弥陀仏の本願が誠であるという証拠を自分が見ることができて、「間違いない」と判断できるようになることではありません。
そのような智慧が身につくのであれば「不疑」ではあっても、「無疑」ではありません。

しかし、話をする人がなにか智慧が身につくように振る舞ったりすると、聞いている人は「あの人は、私に見えない何かが見えているに違いない」と考えます。そこから転じて、「常人にはない判断力があるに違いない」と思ったり、「常人にはない味覚判断能力があるに違いない」と思ったり、「建築家もおどろくセンス」「どの絵がすばらしいか分かる能力」が身につくと考えてしまいます。

しかし、それは信心に対する誤解です。
信心とは、阿弥陀仏の本願に疑いない「無疑心」であって、何が正しいか間違いかが自分で判断できる智慧をもって決めていくという「不疑」ではありません。

親鸞聖人の言われる「信心」の反対は「疑惑」です。
「信心」が「無疑心」ですから、親鸞聖人が言われる本願に対する「疑惑」の反対は「無疑心」となります。「不疑」ではありません。

生死輪転の家に還来ることは、決するに疑情をもつて所止とす。
すみやかに寂静無為の楽に入ることは、かならず信心をもつて能入とすといへり。(正信偈

生死を離れられないのは、疑情という阿弥陀仏の本願を疑う一つできまるのであり、往生浄土するには信心で往くことができるといわれています。
浄土往生するかどうかは、本願を信じるか、疑うかで決まると言われています。これを信疑決判といいます。

阿弥陀仏の本願に対して疑心がないとは、文字通り疑心がないのであって、「間違いないと判断する智慧がある」ということではありません。
智慧を身につけるかのように思うと、阿弥陀仏の救いは一段と遠く感じてしまいます。
阿弥陀仏の本願を聞いて疑いないのが信心ですから、ただ今救われることがあります。