安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

善では助からないとは思うけれど(頂いた質問)

今まで善に励めばいつか救われると思っていましたが、自分の善では助からないということが分かりました。これからは、念仏を称えるしかないと思うのですが、称えていればよいのでしょうか?(頂いた質問)

私を助ける働きは南無阿弥陀仏にしかありません。しかし、念仏を自分のやる善の代わりに据えただけで、往生の手段と思うのは間違いとなります。

悲しきかな、垢障の凡愚、無際よりこのかた助正間雑し、定散心雑するがゆゑに、出離その期なし。みづから流転輪廻を度るに、微塵劫を超過すれども、仏願力に帰しがたく、大信海に入りがたし。まことに傷嗟すべし、深く悲歎すべし。(化身土文類(本)・註釈版聖典P412)

(現代語)悲しいことに、煩悩にまみれた愚かな凡夫は、はかり知れない昔から、迷いの世界を離れることがない。果てしなく迷いの世界を生れ変り死に変りし続けていることを考えると、限りなく長い時を経ても、本願力に身をまかせ、信心の大海にはいることはできないのである。まことに悲しむべきことであり、深く嘆くべきことである。(引用元

ここで、計り知れない昔から迷う理由として「定散心雑するから」といわれています。
念仏を称えるといっても「定散心」をまじえているからといわれています。

これについて、親鸞聖人は、ここで「定散の専心」として教えられます。

定散の専心とは、罪福を信ずる心をもつて本願力を願求す、これを自力の専心と名づくるなり。(化身土門類(本)・註釈版聖典P399)

定散の専心とは、罪福を信じる心で本願力を願い求めるのであって、これを自力の専心というのですといわれています。
罪福を信じる心とは、因果の道理から自分の造る悪い行為は、罪であり悪い結果を起こすだろう罪を恐れ、また自分の造る善は福を起こすだろうと、自分の善をあてにする心です。

簡単にしますと以下のような心です。
「因果の道理は間違いない」「因果の道理は三世十方を貫く道理」→だから、善がなければ助からない、悪が有っては助からない。善と悪に関係ない救いはない。

自分に善はないといっても、善を取り入れて、自分の善の替わりとして使おうと思っているのは、因果の道理を信じる心を根底として本願力を願う心です。近視だからと眼鏡やコンタクトを入れて遠くを見ようとするように、南無阿弥陀仏を使って浄土を観ようというのは間違いです。

罪福を信じる心を大前提として、その上で本願を信じようとすると、自分の中に何か無ければ浄土へ往けるはずがない、自分の善根のかわりに南無阿弥陀仏を取り入れようとしていきます。行いとしては本願に向いてはいても、心が罪福を信じる心をもとにしていれば、自力の専心です。それは捨てねばならないものです。
南無阿弥陀仏が救って下さるのであって、自分が南無阿弥陀仏を手段として使って助かるのではありません。