安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

仏智を疑うとは、罪福を信じる心(頂いた質問)

阿弥陀仏の本願を疑うのは自力だと聞いています。そうすると、こうやって考えているのも自力と思うので、どうやったら自力がなくなるのか分かりません。(頂いた質問)

考えれば自力という言い方も間違いではありませんが、こういう考え方になると、何も考えなければいいのではないかと思う人もあります。
ただ聞いておればよいと、思考停止して聞いておればよいは違います。

本願を疑う心=自力の心ではありますが、自分は一体何を疑っているのだろう。どう疑っているのだろうかと考えると分からなくなる方もあります。
親鸞会に在籍していた人がこう考えられる場合は、親鸞会発行の教学問題テキスト問いと答えを覚えていることが原因ではないかと思います。

(親鸞会発行教学聖典3)
問(22) 無明の闇の別名をお聖教の言葉で五つ以上示せ。


○本願疑惑
○疑情
○疑網
○自力の迷情
○不定の心
○二心

無明の闇とか、疑情と言う言葉がでてきますが、このなかに抜けているものがあります。それが信罪福心です。

信罪福心

信罪福心とは、罪を信じ、福を信じる心です。
罪を信じるとは、自分の造る悪業は罪を引き起こす力があると信じることです。
福を信じるとは、自分の造る善業は福を招く力があると信じることです。
これ自体は、いわゆる因果の道理を信じることですから悪いことではありません。ただ、これを阿弥陀仏の救いに持って行くと、阿弥陀仏の本願力を信じなくなってしまうのです。

罪福信ずる行者には 仏智の不思議をうたがひて
 疑城胎宮にとどまれば 三宝にはなれたてまつる(正像末和讃)

罪福を信じ、善悪の因果の道理に基づいて往生を願うものは、阿弥陀仏の智慧の不思議を疑うことになる。そのため疑城の化土にとどまり、仏の教えを見たり聞いたりできなくなるといわれています。

阿弥陀仏の救いとは、阿弥陀仏の本願力による救いです。別の言い方をすると、全て阿弥陀仏のお力一つで救われるということです。そこへ因果の道理をもってくるとは、悪いことをしたら救いが遅くなる、善いことをすると救いが早くなるという考えです。
私の造る善悪の業の力が、阿弥陀仏の願力に勝ると信じる心、勝るとまではいわなくても影響を与えると信じる心が、信罪福心です。

これは阿弥陀仏の願力よりも、自分の罪福の力が勝っていると信じる心ですから、本願を疑っていることになります。仏智の不思議を疑っていることになります。

何を疑っているか分からない、自力が何か分からない方へのお答えとしては、言葉をかえれば罪福を信じているのです。
阿弥陀仏の救いに、私の善悪の業が影響すると信じる、阿弥陀仏の仏智の不思議を疑っていることになります。

私の善悪が阿弥陀仏の救いの妨げになるような力はありません。逆に言えば、阿弥陀仏の願力は、私の善悪で影響をうけるような小さなものではありません。
南無阿弥陀仏の船が、ゴムボートだったら、乗り方や乗る人の体重が問題になります。私は子どもの頃、二人乗りのゴムボートに乗ろうとして、片側に体重をかけすぎたためボートがひっくり返ったことがあります。それ以来、ゴムボートに乗るときは慎重になりました。フェリーのような大きな船に乗るときに、乗り方や、体重を気にする人はありません。私一人がどう乗ろうと船が傾いたり、沈むことはないからです。
南無阿弥陀仏の船は、「難度海を度する大船」ともいわれるように、船で言うなら非常に大きな船なのです。乗る人がどんな人でも、船に影響はありません。

自分の善悪ばかりを見つめるのは、阿弥陀仏の願力を信じていないからです。願力をゴムボートにして、乗り方を必死で考えているようなものです。
乗っても心配ありませんから、ただ今乗って下さい。大船に乗った気分でと言う言葉はありますが、本願力は大船です。
ただ今救う本願ですから、ただ今救われて下さい。