安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

本願や名号がただの文字に思えますが(頂いた質問)

阿弥陀仏の本願や、南無阿弥陀仏と言っても、どうもただの話のようにしか思えません(頂いた質問)

それ、南無阿弥陀仏と申す文字は、その数わづかに六字なれば、さのみ功能のあるべきともおぼえざるに、この六字の名号のうちには無上甚深の功徳利益の広大なること、さらにそのきはまりなきものなり。されば信心をとるといふも、この六字のうちにこもれりとしるべし。さらに別に信心とて六字のほかにはあるべからざるものなり。(御文章5帖目13通・六字名号無上甚深

文字で書けば南無阿弥陀仏は六字です。「なむあみだぶつ」とひらがなで書いても7字です。そこに「無上甚深の功徳利益の広大なることさらにその極まりなき」と言われています。
ただの字と思うか、無上甚深の功徳利益があると言われるかの違いについて、何が違うかと考えてみます。
私たちの生活でも、ただの数字と、実体を伴った数字とがあります。
ペンをもって、メモ用紙に「100000」と書けば、ただの六文字の数字です。
しかし、通帳に「100000」と記帳してあれば、印刷されているのはただの数字ですが、メモ用紙に書かれたものとは異なります。
通帳の場合は、「100000」という金額が実体としてある上で記帳されたものです。メモ帳に「100000」と書かれてあっても、実体として何かがあるというものではありません。

南無阿弥陀仏は、「ただ今必ずお前を助けるから私をたのめ」と呼びかけられる阿弥陀仏の呼び声です。ただ今必ず助けるという無上甚深の功徳利益のお働きが実際にあり、それが言葉となって私に届けられているのが南無阿弥陀仏です。
ですから、ただの文字ではなく、無上甚深の功徳を文字の形であらわされたものです。
信心といっても六字のほかにはないといわれているのも、南無阿弥陀仏の以外に信心はないのであって、六字以外に何かが見えたり聞こえたりするようなものではないということです。