安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「私は疑っているのでしょうか?」という問いで思ったこと

現在阿弥陀仏に救われていないということは、私は疑っているのでしょうか?(頂いた質問)

「私は疑っているのでしょうか?」という質問は、答えられない質問の一つです。
理由は、「疑っているかどうか」というのはその人の信心の問題で、阿弥陀仏以外の第三者にはわからないことだからです。
救われていないということは、阿弥陀仏の本願を聞いて疑う心があるということです。
しかし、本当の意味でその人が疑っているかどうかは、第三者に聞いてわかるものではありません。また、第三者が答えたことが基準になると、人に認められた信心ということになってしまいます。

何ごとも正しいか間違いかの基準を人の言動に持って行くと、その人中心の考え方になってしまいます。話す人が知識ならば、知識帰命の考えに陥ってしまいます。

そのゆゑは、如来の教法を十方衆生に説ききかしむるときは、ただ如来の御代官を申しつるばかりなり。さらに親鸞めづらしき法をもひろめず、如来の教法をわれも信じ、ひとにもをしへきかしむるばかりなり。(御文章1帖目1通)

親鸞聖人は、如来の教法を人にそのまま伝えられた方で、信心を認定された方ではありません。人を助ける力は代官には当然ありません。
私を助ける阿弥陀仏がおられますと、伝えて下さっているのであって、助ける方は阿弥陀仏です。