安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

以名摂物録(松澤祐然述)「4 受け心と受けた品」

前回の続きです。

4 受け心と受けた品

 そこで受け心というときは、必ず受けた品がなければならぬ。品が届けば受け心はただおこるべき筈である。よって当流の信心安心というは、南無阿弥陀仏の六字の相なりとしてみれば、受けた心地を信心というのではなくて、届いた六字の働きをいうのである。貰い心で行くのではない、貰った品の御力で参るのじゃ。是によって何物にかかわらず、物を貰えば貰い心はあるに違いない。品を受ければ受け心のあるは、当り前である。その貰い心と、貰った品とを分別してとくと味わって見て下さい。


 私の在所より京都まで150里の道中で。私が初めて上京してのは18歳の夏であった。その状況と出かけるときに、父上より20円の金を貰いました。そこで貰った品は20円、貰い心はどうであったかと尋ねてみれば。貰い心は、いろいろの思いがありました。先ず第一に有り難いことよと思った。それだけですか。まだあったよ。この金さえあれば、大丈夫、京都へ行けると思い、又た親なればこそ与えて下されたとも思った。さぁ皆様、ここで深く味わってみて下され。まだ17や18の、二十歳に足らぬ小僧めが、150里の長の道中。野にも寝ねば、山にも泊まらず。汽車や汽船や、人力車なんどで、足に土さえもつけなくて、目出度く京都へ上ったのは。私が有り難いと思ったので上がったのか。大丈夫と思ったので行かれたのか。ここら当りは誰にも分かるところでしょう。貰い心はあるにせよ、その思いは一厘ぶりも、道中の用には足りていない。何で上った、何で行かれた。いわずと知れたことよ。貰い心で行ったじゃない。受けた心地に用事はない。一から十まで親の手元より、譲り与えて下された、20円の金の力があったればこそ、行かれたということは、実に明瞭のことでしょう。


 さぁ今は京都や大阪へ行く話じゃない。生死の海を乗り越えて、十万億の向こうに御座る、花の都の御浄土へ参る話じゃ。行く相談じゃ。何で行かれる、何で参れる。こちらで有り難いと受けた思いで行かるるか。大丈夫と決定したので参れるか、受けた心地が往生の間には合うまい。貰った味を詮議するには及ぶまい。参れる種は知れたことよ。一から十まで親様から、発願回向とこの私へ。譲り与えて下された、20円の金ではない、紙幣ではない。たった六字の名号が、胸に届いておればこそ。不足があるかこの六字、小言はいえまいこの名号。つまらぬ六字で御座らぬぞ、安い名号と思うなよ。この六字の名号のうちには、無上甚深の広大なること、更にそのきわまりなきものなり。弥陀の身代のありだけの、光明無量の御利益も、寿命無量の御利益も、摂取の力も、助ける手柄も、活きてはたらく御六字が、胸に届いてある上は。是が信心。是が御助け。南無も帰命も発願も、こちらから出す思いではない。届いた六字の御助けに、たのめる力があればこそ、たのむまいぞといわれても、たのむ思いはただおこる。おこる思いに用事はないが、用事ないとて出さずにおれぬ。おれぬ筈じゃよ、たのめる六字の主じゃもの。六字一つのはたらきで、雑行雑修の世話もなく。助けたまへとたのまれて、ご恩一つのやり場なく。口へこぼるる念仏の、数は多少にかかわらず。報謝の行のありだけが、自の行を行ずるのではなかったわい。皆是他力の貰いもの。貰った品でただ参り。ただで参れる浄土なら。道中大事にこころがけ。行き着くまでの日暮しは、王法仁義を大切に。邪見不法の怪我せぬよう。無事にこの世を送りましょう。

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以名摂物録(松澤祐然述)「5 受け心は千差万別」 - 安心問答(浄土真宗の信心について)

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以名摂物録 - 国立国会図書館デジタルコレクション

以名摂物録

以名摂物録