安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

特殊な何かが見えるような体験を信心とは言いません(頂いた質問)

信心決定すると何か今まで見えなかったものが見えるようになったり、聞こえなかったものが聞こえるようになるのでしょうか?(頂いた質問)

信心決定の体験という言葉もあるので、何かしら体験するのだろうと思う方があります。お尋ねのように、何か見えないものが見えたり、聞こえなかったものが聞こえるようになると思う人があります。

ぱぁーっと心が明るくなったり、もの凄い喜びが吹き出てくるのだろうと思う方もあります。そのように心が明るくなったとか、喜びが吹き出てくると言うのは、泣いたと、笑ったと同じ感情の起伏であって信心そのものではありません。

信心は、阿弥陀仏の本願を聞いて疑いのないことです。ですから、信心のことを「無疑心」といわれたり、「疑蓋間雑有ること無し」「疑蓋交わること無し」といわれています。

次に信楽といふは、すなはちこれ如来の満足大悲円融無碍の信心海なり。このゆゑに疑蓋間雑あることなし。ゆゑに信楽と名づく。すなはち利他回向の至心をもつて信楽の体とするなり。(教行信証・信巻

信楽とは、如来の智慧と慈悲による信心の海である。この故に疑蓋間雑することなし。利他回向の至心(仏心・南無阿弥陀仏)をもって信楽の体とするなり。

阿弥陀仏の本願に疑いを交えないことを信楽といいます。疑いを交えないと言うことは、阿弥陀仏の信楽がそのまま私の上に現れることです。
信心とは、私の上にあらわれてくだされるものですが、その本体は阿弥陀如来の本願であり、仏心です。

阿弥陀如来の信楽がそのまま、私の信楽となる信心ですから、私が何か見えたり聞こえたりするように新たに加わるものではありません。疑いを交えず常に私に回向される、「必ず救うからまかせよ」の阿弥陀如来の願いが信心です。私に何か能力が加わることではありませんから、新たに見えたり聞こえたりするようなものではありません。