安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

信心の沙汰の「信心」について(スニフさんのコメント)

スニフさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

御文章の1帖12通目に「わが信心は、ひとの信心は、いかがあるらんといふ信心沙汰をすべき用の会合なるを、ちかごろはその信心といふことはかつて是非の沙汰におよばざるあひだ、言語道断あさましき次第なり」とあります。
これは「わが信心」とならんで「ひとの信心」の「是非」をも問題にしなさい、ということではないのでしょうか。
そして「是非の沙汰」とは、「それは真実信心だ」とか、「それは真実信心ではない」といった話し合いのことではないのでしょうか。
(略)
ただ、「あなたのは真実信心ではないのでは?」という沙汰もできるのではないか、ということをおたずねしたかったのです。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20100421/1271798657#c1272030265

信心の沙汰という信心についての意味をどう思っているかによるお尋ねだと思います。
「信心の沙汰」といいましても、「私はこういう体験をしました」という沙汰ではありません。
信心とは、過去こういう体験をしたということでも、自分で思い固めた信念でもありません。

「信心」は、如来の御ちかひをききて疑ふこころのなきなり。(一念多念証文)

信心とは、阿弥陀如来の本願を聞いて疑う心のない状態をいいます。何かがあるという「ものがら」ではないです。
ですから、「信心の沙汰」といいましても、何かの品評会のように、自分の持っているものがらをみんなで判断するということではありません。
「それは真実信心だ」「そうではない」という話し合いと聞きますと、何かその人が得た「ものがら」や「体験およびその記憶」についての話し合いのように思ってしまいます。しかし、信心そのものが、なにかの「もの」ではないので、それは信心の沙汰とはいいません。体験の沙汰や、記憶の沙汰です。

阿弥陀如来の本願を聞いて疑う心のない状態を信心といいますので、疑う心があるかないかが、信心の沙汰です。
自力の計らいがあるかないかが、信心かそうでないかの違いです。
何を体験したかどうかは、信心とは関係ありません。何か感じたかどうかも信心とは関係ありません。

きくといふは、本願をききて疑ふこころなきを「聞」といふなり。またきくといふは、信心をあらはす御のりなり。(一念多念証文)

本願を聞いて疑う心がないのが「聞」であり。「きく」とは、信心をあらわされた言葉であるといわれます。
信心とは何かといわれれば「きく」ことです。
「きく」とは、阿弥陀如来の本願を聞いて疑うこころのないことです。

信心といっても何か特殊なことを体験するでもありません。何か特別なものが見えることでもありません。
常に働きかけておられる南無阿弥陀仏に、私の計らいを交えずに聞いているのが信心です。

本願を聞いて疑う心があるかないかは、本人と阿弥陀仏にしかわかりません。
しかし、喜んだことを信心だと思っている人、思い込んだのを信心だと思っている人に、それは違うという沙汰はできます。
そういう意味で、あなたがいう「信心」は、親鸞聖人がいわれる「疑蓋間雑あることなし」と違うよということはできます。