本願に疑いないというのは、「私が」本願に対する疑いが無くなりました!となる事でしょうか? | Peing -質問箱-
これについて,以下のように書きました。
阿弥陀仏の本願に疑い無いについては、阿弥陀仏の本願そのものが「必ず私を助ける(ことに疑い無い)」ので、それを聞いて疑いないことになります。
単に「私が」疑い無いだけでしたら、肝心の本願が危ういものでもよいということになりますが、それでは安心はできません。
しかし、「私を助ける」という本願に疑いないのですから、疑い無いことに私も入ります。
これに加えて書きます。
阿弥陀仏の本願を聞いて疑い無いのが信心であるというのは、以下に言われているところです。
「聞其名号」といふは、本願の名号をきくとのたまへるなり。きくといふは、本願をききて疑ふこころなきを「聞」といふなり。またきくといふは、信心をあらはす御のりなり。「信心歓喜乃至一念」といふは、「信心」は、如来の御ちかひをききて疑ふこころのなきなり。(一念多念証文 浄土真宗聖典註釈版P678)
http://u0u1.net/3Aw7
そこで「疑い無い」という点から、「私が」疑いなくなるのかという質問でした。とにもかくにも「私が」疑い無いということだけを言えば、いわゆる陰謀論の人が「コロナワクチンにはナノマシンが入っているんだ! 」言う人も疑いない訳ですがそれと同じということになってしまいます。
こういう「私が」疑いないということの危うい点は、「疑い無い」状態(言い換えればそれは間違いないと判断している)を作っているのが私自身の視点から出ていることです。
ですから、「私が」本願に疑い無いというのは、「私目線」で本願を判断しているにすぎません。
「私が」疑い無いと「本願」に(が)疑いないについて
では、「本願」に(が)疑い無いとの違いはどういうものかについて書きます。
本願が真実である、本願の信心が真実であるというのは、阿弥陀仏の視点から言われているものです。親鸞聖人の浄土文類聚鈔から紹介します。
ゆゑに三心みなともに真実にして疑心なし。(浄土文類聚鈔 浄土真宗聖典註釈版P490)
http://u0u1.net/Eawa
阿弥陀仏の本願の三心(至心・信楽・欲生)はみなともに真実であり疑心なしといわれています。この「疑心なし」は「阿弥陀仏が」疑心なしであって「私が」疑心なしではありません。
阿弥陀仏が私を助けるのに疑い無いのが、本願です。その本願を聞いて疑い無いことを信心といわれます。
こちらで「間違いないもの」と決めつけたのではなく、「疑い無い本願」によってそれを聞いた私に疑いないということです。
文法のことについて最後に少し触れます。
「に」は辞書的には「動きや状態が成り立つ場所を表わす(日国より)」となるので主語とはなりません。
(阿弥陀仏が)本願に(おいて)疑いないということなので主語は阿弥陀仏になります。
それで「本願に疑い無い」とは少々長く書きますと
「(阿弥陀仏が)本願に(おいて)疑いないことを聞いた私は本願に疑い無い状態になる」のが信心ということになります。
私がこうだと決めた信心ではないので、疑い無いのも変わりません。