おしゃまさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。
同じご説法を聞いていても、信後と思われる人の中には、泣いて喜んでいる人がいます。
http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20100428/1272442315#c1272538965
「何が聞こえるんですか?」と尋ねたことがあるのですが、「こころ。」との答えでした。
信後に、特殊な何かが見えたり、聞こえたりするようになるとは思いませんが、“阿弥陀仏のみ心”がわかって、聞こえ方は変わってくるんですよね?(おしゃまさんのコメント)
阿弥陀仏の本願は、言葉で言えば「ただ今救うから私をたのみにせよ」です。また、
なんぢ一心正念にしてただちに来れ。 われよくなんぢを護らん。 すべて水火の難に堕することを畏れざれ(教行信証信巻より)
ともいわれています。
信前でも信後でも、「阿弥陀仏の本願はどんな本願ですか?」と聞けば、同じように答えられると思います。おしゃまさんの言われるように、何か特別なことが本願に加わって聞こえるようになるのではありません。
誠なるかな、摂取不捨の真言、超世希有の正法聞思して遅慮することなかれ。(教行信証総序)
誠なるかなといわれているのは、「摂取不捨の真言」であり「超世希有の正法」です。どちらも、阿弥陀如来の本願です。私を助けようという阿弥陀如来のまことの言葉です。
御心が分かるというよりは、親鸞聖人が言われるように、阿弥陀仏の本願が誠であると、疑いがないことです。まことだから有り難いのです。
疑いなく聞いているという意味では、聞き方は変わっています。
聞こえ方については、私の方に疑いがないという意味では変わりますが、聞いている本願が変わらないという点では変わりません。以前は、変わらない本願の言葉を自分で勝手に曲げて聞いていただけなのです。