安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「お救いに条件は無いというが、本願に疑いが無いというのは条件になりませんか?私が自分で疑いを捨てることはできないので、阿弥陀様の仰せをそのまま聞いたら結果的に無疑の状態だったということでしょうか」(Peing質問箱より)

質問箱より

お救いに条件は無いというが、本願に疑いが無いというのは条件になりませんか? | Peing -質問箱-
質問箱には、以下のように書きました。

「○○という条件をクリアできたら救います」というのが、条件のある救いです。本願に疑い無いというのは、救われた状態のことをいいます。

親鸞聖人は、「信心は疑いのないことだ」といわれます。
これは、「信心とはどうなったことか」を言われたもので、「疑い無くすことによって信心になる」といわれたものではありません。
質問箱の文章にあるように「私が自分で疑いを捨てることはできないので、阿弥陀様の仰せをそのまま聞いたら結果的に無疑の状態だった」ということでよいと思います。

そこで、「疑い(自力)」がある間は、「そのまま聞く」ことはできません。「そのまま聞いた」ら疑いはありません。そこで、「そのまま聞こう」と頑張るのも「疑い」となりますので、この理屈を推し進めても救われるということにはなりません。

「どうしたら疑い晴れるのか」というのは、「自らが疑いを晴らすこと」が救われる条件となってしまいます。ただ、「疑い」を晴らそうというのもまた自力の計らいなので、原理的に達成できない条件となります。「考えないで下さい」と言われて、「どうやったら考えないですむだろうか」と考えてしまうようなものです。


そこで、自分の力で難しいからこそ、阿弥陀仏の力で救われるのだと親鸞聖人は言われています。

しかるに常没の凡愚、流転の群生、無上妙果の成じがたきにあらず、真実の信楽まことに獲ること難し。
なにをもつてのゆゑに、いまし如来の加威力によるがゆゑなり、博く大悲広慧の力によるがゆゑなり。(顕浄土真実信文類 (本) - WikiArc・浄土真宗聖典註釈版P211)

「如来の加威力」「大悲広慧の力」はともに阿弥陀仏の力を言われています。
私の側からなんとかしようと頑張ると、「真実の信楽まことに獲ること難し」ですが、「如来の加威力による」から信心を獲ることがあります。
「疑いだけは私の方でなんとかしてください。助けるほうはこちら(阿弥陀仏)でします」というものではありません。南無阿弥陀仏を聞いたのが疑い無い信心なので、私には何も条件はありません。
ただ今助けるの仰せを聞いて、ただ今救われます。