安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「救われたと明言する人はどこで知らされたのか?」(おさびしやまさんのコメント)

おさびしやまさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。また、複数の方からコメントを頂き有り難うございました。

1つ目のお尋ね、『「阿弥陀仏の本願に救われたことは自分の心とは違うところで知らされる」とは、どこで知らされるのでしょうか』にお答えしますが、自分の心は何も変わらないので、知らされる心が自分の心とは別のところに現われるのだろうかと思いました。救われたと明言なさる方々はどこで知らされたのか、私が知りたいことなのです。阿弥陀仏がそのまま来いといわれる仰せは言葉となって私の心に届いていると理解しています。私の心が受け皿となってその仰せを聞いてるのだと思っています。しかし私はとても救われたと思えません。実際救われたと明言される方々がいて、自分の心で知らされるのではないといわれると、自分の心とは別のところで知らされる何かがあるとしか思えないのです。(おさびしやまさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20101005/1286269865#c1286472196

おさびしやまさんのコメントを読ませていただきますと、

  1. 阿弥陀仏の本願を言葉として自分は聞いている
  2. けれども救われたとは思えない
  3. 救われたと言っている人も自分と同じように本願を聞いているはずだから、何が違うのだろうか?

ということなのかなと思いました。

阿弥陀仏の本願は、南無阿弥陀仏となって私のところに届いています。今までご自分で称えられた南無阿弥陀仏を、また自分の耳で聞かれたことがあると思います。それは、おさびしやまさんも、私も同じです。自分の口から出て下される南無阿弥陀仏は、10年前も、今も変わりません。
何が違うかと言えば、本願を疑う心が有るか無いかです。
「こうして聞いてるけれども、なぜ救われないのだろうか」ではなく、「疑いなく聞いているままが、信心であり、阿弥陀仏の救い」ということです。

きくといふは、本願をききて疑ふこころなきを「聞」といふなり。またきくといふは、信心をあらはす御のりなり。「信心歓喜乃至一念」といふは、「信心」は、如来の御ちかひをききて疑ふこころのなきなり。(一念多念証文・註釈版聖典P677

信心と言っても、なにか別の心があらわれるというようりは、「如来の御ちかひをききて疑ふこころのなき」ことです。本願に疑いが無いのが信心で、「信じられた」のが信心ではありません。また、「知らされた」のが信心でも有りません。
救われたというのも、「必ず救う本願に疑いないから、救われる」ということです。救われた証拠は、今の南無阿弥陀仏にあるのであって、「知らされた」ところにはありません。

阿弥陀仏の本願は、南無阿弥陀仏となって働いて下さっています。「心を受け皿に」ということであれば、その受け皿が、本願をどう聞いておられるのかということになります。
「本願の言葉からいえば、救われているはずだ(または、救われてもおかしくない)けれども、なぜ救われていないのか?」ということでしょうか?

阿弥陀仏の本願についてはどのように思われていますか?