安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

阿弥陀仏の本願を疑うというのはどういうことでしょうか?(頂いた質問)

阿弥陀仏の本願を疑うというのはどういうことでしょうか?(頂いた質問)

自分は疑っていないつもりだけれども、まだ救われていないのは本願を疑っているからだろうということでのお尋ねだとおもいます。
そこで、自分が気が付かない「感情」として「疑い」を探してもなにも見つかりません。本願を疑う心ですから、本願に向いていないと存在しないのも同じことです。例えば、「怒り」という感情は、一人自分の心を見つめて分かるものではありません。仮に一人いても、何か対象に向かって「怒り」を向けているのですから、どこかに向いていないと出てこない心です。

そこで本願に向くとはどういうことかというと、本願を聞くということです。阿弥陀仏の本願は、現在ただ今の私を救うためのものです。現在ただ今の私を救うために現れた仏様が阿弥陀仏です。

そういう意味から言うと、例えば「どうして助けてくれないのか?」という疑いは、「私のために現れた仏であるということを知らない(疑っている)」ところから出てきます。

以前のエントリーで紹介した。

いかんが不如実修行と名義と相応せざるとする。いはく、如来はこれ実相の身なり、これ物のための身なりと知らざるなり。(同上・P215]

です。

どこかそういう仏がおられるらしいと思っていれば、それは「如来はこれ実相の身なり、これ物のための身なりと知らざる」ということです。阿弥陀如来はすでに仏になられていますし、私のために仏になられています。
「私を助けるために仏になられた」阿弥陀如来が、「私を助けない」ということはありえません。
ただ今救うと呼びかけられるのも、ただ今救うために仏になられた阿弥陀如来だからです。それがどうもよく分からないということを本願を疑うと言います。
それは捨てて、本願を聞いてただ今救われてください。