安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

歎異抄9章・唯円房の質問について思うこと(ヘムレンさんのコメント)

山も山さんは、他人の信心は判断できないと言っておられますが、あえてお尋ねしたい事があります。
「歎異抄」第九章での唯円房は、信前だと思うのですが、山も山さんはどう思われますか?
山も山さんの“お味わい”でいいですので、教えていただけないでしょうか。(ヘムレンさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20100421/1271798657#c1272015357

歎異抄9章に出てくる唯円房についてですが、私は信後の方だろうと思っています。

念仏申し候へども、踊躍歓喜のこころおろそかに候ふこと、またいそぎ浄土へまゐりたきこころの候はぬは、いかにと候ふべきことにて候ふやらんと(歎異抄9章

歎異抄9章で、唯円房自身の言葉は上記の部分だけです。
念仏を称えていても、踊躍歓喜の心も無く、また急いで浄土へ往きたいという心がないのはどういうことでしょうか?という言葉を読まれて、ヘムレンさんは、信前だと思われたのだと思います。
この言葉は、誰が言うかによって意味が変わってきます。
「念仏称えていても、歓喜もなく、浄土へ行きたい心も無い」の部分だけならば、救われていない人で、同じ事を言う方は多いと思います。日頃仏法を聞くご縁もなく、たまに葬式にいって周りにあわせて念仏称えている人の心境はこの通りです。

しかし、唯円房の発言はその後に「いかにと候べきことにて候やらん(どういうことかと)」と不審を述べています。前述のたまに葬式に行くような人には、この不審はありません。また信前の人には無い人が多いのではないでしょうか。
「救われていないのだから、喜ぶ心もないし、浄土へまだ往ける身になっていないのだから、急いで浄土に往きたいと思う心がないのは当然ではないか」と思う人もあります。

当然喜ぶべき身になっているのに、踊躍歓喜の心がないし、浄土へ往ける身になっているのに、急いで浄土へ往きたい心がないから起きてくる不審だと思います。
そう推測するのも、この唯円房の問いに対して、親鸞聖人がご自身のこととして

親鸞もこの不審ありつるに、唯円房おなじこころにてありけり。(歎異抄9章

と仰っているからです。

この喜ぶことが喜べないのは、私に煩悩があるからです。煩悩具足した凡夫であるというところから起きる不審です。

しかるに仏かねてしろしめして、煩悩具足の凡夫と仰せられたることなれば、他力の悲願はかくのごとし、われらがためなりけりとしられて、いよいよたのもしくおぼゆるなり。(歎異抄9章

煩悩具足の凡夫と、阿弥陀仏が見ておられるから、凡夫が凡夫と知らされてくるのです。また凡夫が凡夫と知らされた上で、阿弥陀仏の私を助けようという大慈悲の願いは私のためであると知らされます。また、本願がいよいよたのもしく知らされます。
私の心の中を探しても、煩悩しかありません。喜ぶべき事があっても喜ばせない煩悩であり、この娑婆世界から離れたくないと思うのが煩悩です。

自分の心を覗いてみて知らされるのは、煩悩です。踊躍歓喜の心も、急いで浄土に往きたい心もありません。ありがたいのは、阿弥陀仏の大慈悲がありがたいのです。有り難いところを「いよいよたのもしく」思っているのです。

唯円房の不審は、阿弥陀仏の大慈悲が知らされ、凡夫が凡夫と知らされた上でのことだと思います。