安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

今救われたいと思う心とそれを利用する心(MMAさんのコメント)

MMAさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

「今、救われたい」という気持ちで阿弥陀仏に向かうことが大事だと思いますが、私にはその「今、救われたい」と強く願う心を阿弥陀仏に差し向けて助けてもらう手立てにしようとする心があるように思います。ということは私の「今、救われたい」と思う心は自力なのでしょうか?
自力ならば捨てなければならないということになりますが、「今、救われたい」という心を捨ててしまったら、もうそれまでということにならないのでしょうか?
 それとも「今、救われたい」と思う心は阿弥陀仏によって私に起こさせられている心であって自力とは別物なのでしょうか?(MMAさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20100329/1269852822#c1269954257

「今、救われたい」と思う心は大変尊いお気持ちです。
これは、阿弥陀仏によって起こされる心です。

その「今、救われたい」という心を救いの手段に使おうという心を自力の心と言います。

おほよそ大小聖人、一切善人、本願の嘉号をもつておのれが善根とするがゆゑに、信を生ずることあたはず、仏智を了らず。(教行信証化土巻

南無阿弥陀仏を、自分の善根とするから、真実信心とならないと親鸞聖人がいわれたのは、本来自分の作り上げたものではない南無阿弥陀仏を、自分が作ったもののように思い、自分の道具として使おうとするからです。
こうやって、南無阿弥陀仏を使おうとする心を自力の心といいます。南無阿弥陀仏そのものは、自力の心ではありません。

「今救われたい」という心は、阿弥陀仏の本願力により、南無阿弥陀仏により起こさせられた心です。それを往生のための道具に使おうとする心が自力の心です。

「今救われたいと思う心を捨ててしまったらもうそれまででは、ないでしょうか?」というのは、「今救われたい」という心を、往生の道具に利用しようとしているからです。その不安に思う心が、利用しようという心であり、自力の心です。

「今救われたい」と思うのは、阿弥陀仏が「今救うぞ」と願力をかけておられるからです。自力を捨てて、願力に乗じて下さい。必ずただ今救われます。