安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

そのままとは、聞いたそのままということ(頂いた質問)

阿弥陀仏の救いは、そのままの救いと聞きますが、そのままと聞くと「このままで何もしなくてよいのだろうか?」と思います。(頂いた質問)

阿弥陀仏の救いはそのままの救いですよという言葉はよく聞く言い方です。
この「そのまま」というのは、二通りの意味で解説することができます。

  1. 貴方はそのままで救われる。(煩悩具足の凡夫は変わらない)
  2. 聞いたそのままが救いである。

1、貴方はそのままで救われる。(煩悩具足の凡夫は変わらない)について

そのままと聞いたときに、どうしても「私がそのまま」というように聞いてしまいます。もちろん救いのものがらは、私の中にあるわけではなく、南無阿弥陀仏の中にあるのですから、私の三業に何か善根を付け足したり、悪業を減らしたりしなければならないのではありません。
善人になって救われるのでもなければ、悪がより知らされて救われるのでも有りません。そうでなければ、ただ今救われることはありません。

しかし、お尋ねのことについて大事なのは2の方だとおもいます。

2、聞いたそのままが救いである。

「直ちに来たれ」が、阿弥陀仏のよび声であり、南無阿弥陀仏のお働きです。
その名号を聞いたそのままが救いになることを、聞即信といいます。
「直ちに来たれ」「そのまま救う」が、「私の救い」になるということです。「助ける」の仰せが、そのまま「助かる」になることです。
聞いたことが、そのまま信心になるので、聞即信といいますが、その「聞」については、親鸞聖人が、

きくといふは、本願をききて疑ふこころなきを「聞」といふなり。またきくといふは、信心をあらはす御のりなり(一念多念聞意)

といわれています。阿弥陀仏の本願を聞いて疑心が無いのが、聞ということです。
「直ちに来たれ」を聞いたそのままが、聞ということです。
聞いたそのままの聞ということで、これを「如実の聞」といいます。
「聞其名号信心歓喜」と本願成就文にいわれた「聞」は、この「如実の聞」です。
私は本願は何度も聞いていますが、阿弥陀仏の呼び声が聞けませんといわれる方の「何度も聞いている・聞」は、この「如実の聞」ではなく、「不如実の聞」だからです。
不如実の聞とは、どんな聞かといえば、二十願にあるような「聞」です。

聞我名号 係念我国 植諸徳本 至心廻向 欲生我国
わが名号を聞きて、念をわが国に係け、もろもろの徳本を植ゑて、至心回向してわが国に生ぜんと欲せん(二十願)

20願でも「わが名号を聞きて」と有りますから、18願成就文に「その名号を聞きて」とあるように「名号を聞いて」いるのは同じです。しかし、20願でいわれる「聞」は、名号を自分の功徳の本にして、自分で称えてその功徳を阿弥陀仏に回向しないと助からないと聞き誤っているので不如実の聞といわれます。

名号を「そのまま救う」と読み替えるとこうなります。
「そのまま救う」と聞いて、「そのまま救う」と私はちゃんと聞きましたよ、わかりましたよと理解を加えて阿弥陀仏に差し向ければ、阿弥陀仏がOKの返事を下さると聞いているということです。「そのまま救う」を聞いたそのままに聞いていないので、これを不如実の聞といいます。
「そのまま救う」をわかろうとするのは、「分かろう」「知ろう」と南無阿弥陀仏に手を加え、手を出しているのです。20願で言えば、私から阿弥陀仏に至心廻向している姿です。
南無阿弥陀仏は、阿弥陀仏から回向されるものであって、私から回向した結果さらに返事として頂けるものではないのです。
例えていえば、向こうから押して開けて頂くドア(こちらから見れば引いて開く)を、こちから一生懸命押しているようなものです。押して開かない構造のドアを一生懸命押しても、どれだけ押してもそれは絶対に開きません。硬くなるばかりで、絶対に開きません。

微塵劫を超過すれども、仏願力に帰しがたく、大信海に入りがたし。まことに傷嗟すべし、深く悲歎すべし。(教行信証化土巻)

と化土巻に言われたのはこのことです。
厳しく聞き間違いを戒められています。

「そのまま救う」と聞いた本願を、聞いたそのままが信心です。聞いて分かったのが信心ではありません。聞いたそのままにしないのが、自力の心といわれるものです。それは捨てものです。阿弥陀仏から私へ私へと回向される南無阿弥陀仏を、私から阿弥陀仏へと聞き誤るのですから、私から阿弥陀仏へという心は捨てよといわれ、私へ私へと回向される南無阿弥陀仏をたのめと言われるのです。

「弥陀の呼び声」を聞いていないのではなく、聞いているけど聞き誤っているのが「不如実の聞」です。
聞いたそのままが、阿弥陀仏の救いですから、自力は捨てて、ただ今阿弥陀仏に救われて下さい。