安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

合点と真実信心の違い(maryさんのコメント)

合点と真実信心との違い目をお聞きしたいです。(maryさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20100331/1269985080#c1269990976

合点とは、聞いて納得するということです。
真実信心は、阿弥陀仏の本願に疑いない心をいいます。

合点と聞くと、よく聞く言葉に、お軽同行の言葉と言われる以下のものがあります。

合点ゆかずばゆくまで聞きやれ、聞けば合点のゆくお慈悲。合点したのは聞いたにあらず、それは知ったの覚えたの。合点せいとは口では言えど、不思議不思議のほかはない

ここで、「合点したのは聞いたにあらず」の「聞いた」とは、以下の「聞いた」です。

しかるに『経』(大経・下)に「聞」といふは、衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、これを聞といふなり。(教行信証信巻

阿弥陀仏がなぜ私を助けるという本願を起こされたのか、その結果どうやって私を助けようと働いておられるのかと言うことを聞いて疑いないことです。この「聞いた」が「真実信心」となります。本願に疑いないとは、本願の通りに救われるということです。

聞いて理解をしたことは、合点ですが、聞いて疑いないのが真実信心です。
別の言葉で言うと、合点でいう「聞いた」は、「本願はそういう構造である」という理解ですが、真実信心の「聞いた」は、「本願に救われること」です。

また、もう一つ別の方向から言いますと、合点は自分で作るものですが、真実信心は阿弥陀仏から回向されるものです。

「信心」といふは、すなはち本願力回向の信心なり。(教行信証信巻

と言われるように、真実信心は、本願力回向の信心です。阿弥陀仏から差し向けられるものをいいます。

その言い方からすると、作ったのが合点、頂いたのが信心。つかんだのが合点、つかまないのが信心ということもできます。

ただ、合点と言いましても、意味が非常に広いので、「あぁ、それ知ってます」ということも合点には違いありません。いろいろな合点があります。
自分はどれだけ合点したかを問題にしても、信心とはものがらが違うので、「どれだけ合点したか」はあまり問題ではありません。
自分は、まだ分かってないから救われないという方もあります。阿弥陀仏が私を助けるために働いておられるということ以上に、法についてわからねばならないことはありません。

「これぐらいしか分かっていない今の私」を救うと本願を建てておられます。
「聞けば合点のゆくお慈悲」とお軽同行が言っているように、「なぜ私を助けて下さるのか」が、合点せよというところでは大事です。「何かを分かりなさい」という本願ではなく、「お前を救うぞ」という本願を聞いて疑いないのが信心です。