安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「横着者で阿弥陀仏と真剣に向き合うことができません。そのような殊勝な心はないようです。」(STEPさんのコメントより)

STEPさんよりコメントを頂き有り難うございました。また、STEPさんのコメントにコメントを書かれたみなさん有り難うございました。

STEP 2014/10/05 10:34
私は逃げることしかできません。
お調子者で、いい加減な私です。
横着者で阿弥陀仏と真剣に向き合うことができません。
そのような殊勝な心はないようです。
一向に救われません。
今がそうなら未来もずっとこのまんまかもしれませんね。
泣きです(T_T)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20141004/1412410249#c1412472857

STEPさんの言われることはよく分かります。私も殊勝な心はありません。殊勝な心があるのは、阿弥陀仏の願心の中にあるものです。もちろん、阿弥陀仏に対して殊勝な心などというのは適切では有りませんが、説明上そう書かせて頂きました。

ただ、自分自身が「お調子者」だとか「横着者」だとか「殊勝な心がない」ことは「救われない理由」ではありません。救われないのは、自分にそのようなラベルを貼って「救われないこと」を「仕方がないよね」と阿弥陀仏の仰せに対して耳を塞いでいることです。しかし、どれだけ耳を塞いでも、本願招喚の勅命は大きくかつ休みがないので何らかの形でSTEPさんに届いています。

その証拠にSTEPさんは、阿弥陀仏のことを忘れておられません。「泣きです」と言われるのは、阿弥陀仏の願心がそのままSTPさんに投射されているからです。私自身に、阿弥陀仏の本願を聞いて泣くような殊勝な心はありませんが、泣いて喚び続けるような願心はなんとなく伝わってくるものです。

南無阿弥陀仏と、STEPさんの口から今でも南無阿弥陀仏は出てきて下さっていると思います。それに対して「念仏で助かるような殊勝な者ではない」と思わないでください。実際はその反対で「殊勝でないものを助けるための南無阿弥陀仏」です。「お調子者を救う為の南無阿弥陀仏」です。「横着者を救うための南無阿弥陀仏」です。


ですから、南無阿弥陀仏はSTEPさんのために成就された救いの法そのものということです。

煩悩具足のわれらは、いづれの行にても生死をはなるることあるべからざるを、あはれみたまひて願をおこしたまふ本意、悪人成仏のためなれば、他力をたのみたてまつる悪人、もつとも往生の正因なり。(歎異鈔第3条・悪人正機)

http://goo.gl/l8JLbW

ここで「煩悩具足」「悪人」と書かれているところを、ご自分が「○○だから救われない」と思っている「○○」に置き換えて読んでみてください。


そんな「○○な私」をあわれに思われて阿弥陀仏は本願を建てられました。その本意は、○○な私を仏にするためです。ですから、その本願他力をたのむ○○な私が往生する者ということです。


STEPさんの泣く心は、自分が自分に対して評価を下すものだけではありません。そこに阿弥陀仏の何とか助けたいの心があることを聞いて下さい。