安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

そのままになろうとするのは、そのままではありません(頂いた質問)

阿弥陀仏の救いは、そのままの救いと聞くと、そのまま何もしなくてよいように思ってしまいます。それでは違うようにも思うのですが、どういうことでしょうか?(頂いた質問)

阿弥陀仏の救いはそのままの救いですが、何にもしなくてよいんだと座り込むのは、横着になってしまいます。やりたい放題なんでもしておれば救われるということでは、そのままではなく、わがままになります。
「そのまま」というのは、「聞いたそのまま」ということです。

聞いたそのままと言うことは、私の側で判断をあれこれつけない救いだということです。
仏法の話をきいて「これで大丈夫」とか「これで安心」と思う判断をつけると、その判断を加えることによって、「そのまま」ではなくなってしまいます。

「○○」【だから大丈夫】「○○」【で安心】「○○」【だからダメだ】

上記の【だから大丈夫】、【で安心】というのが、付け加えた判断ということになります。その判断が、自分自身のたよりになるので、往生するかどうかを、自分の側で全部囲い込んでしまいます。
言葉は違っても、「○○」【だから大丈夫】も「○○」【だからダメだ】は、自分の判断が基準になるので、それではあてになりません。
助かる働きは、全部南無阿弥陀仏の中にあるので、私の判断が加わる必要もありません。

かるがゆゑに、阿弥陀仏の、むかし法蔵比丘たりしとき、「衆生仏に成らずはわれも正覚ならじ」と誓ひましますとき、その正覚すでに成じたまひしすがたこそ、いまの南無阿弥陀仏なりとこころうべし。これすなはちわれらが往生の定まりたる証拠なり。されば他力の信心獲得すといふも、ただこの六字のこころなりと落居すべきものなり。(御文章4帖目8通

阿弥陀仏が法蔵菩薩のときに、「貴方を仏にさせることができなければ、私も仏のさとりをとりません。と誓われた、その本願が成就した姿が、南無阿弥陀仏です。この南無阿弥陀仏が、私の往生が定まった証拠です。だから、信心獲得するといっても、ただこの南無阿弥陀仏のおはたらきであるということです。

南無阿弥陀仏に、「私が聞いた」「これで大丈夫」を加えて、往生が定まるのではありません。
往生定まった法である南無阿弥陀仏を、聞かせていただくということです。それが、「聞いたそのまま」ということです。
「聞いて間違いない」という私の判断が間違いないのではありません。聞こえて下さる南無阿弥陀仏が間違いないのです。
「そのままになろう」とするのではなく、「そのままの法」を聞くのです。
「そのままになろう」とすると、聞いたそのままにはなりません。そのままになろうと肩に力をいれるのは、ちょっと横に置いて、そのまま救うの南無阿弥陀仏を聞いて下さい。