安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「要するに、救われた自覚があるということでしょうか」(マヤさんのコメントより)

「無疑心がハッキリする、しないということではないならば、それは自覚されないということでしょうか。」(マヤさんのコメントより) - 安心問答(浄土真宗の信心について)についてマヤさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

マヤ 2012/12/30 01:09
>「弥陀の仏智にまかせた」からくる自覚はありますということになります。

要するに、救われた自覚があるということでしょうか。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20121229/1356727172#c1356797361

救われた自覚はあります。それはコメントの部分に引用されたように弥陀の仏智にまかせたということです。


弥陀の仏智とは、言い換えれば南無阿弥陀仏のことです。南無阿弥陀仏とただ今私に呼びかけられていることをそのまま聞いているのが救われたということです。

かるがゆゑに、阿弥陀仏の、むかし法蔵比丘たりしとき、「衆生仏に成らずはわれも正覚ならじ」と誓ひましますとき、その正覚すでに成じたまひしすがたこそ、いまの南無阿弥陀仏なりとこころうべし。これすなはちわれらが往生の定まりたる証拠なり。されば他力の信心獲得すといふも、ただこの六字のこころなりと落居すべきものなり。(御文章4帖目8通・浄土真宗聖典 (註釈版) 第ニ版P1179)

http://goo.gl/lJC1G

上記の御文章に蓮如上人がかかれているように、私が救われ往生が定まった証拠はいまの南無阿弥陀仏です。


阿弥陀仏が法蔵菩薩であったとき、私を仏にすることができなければ仏にならないと誓われたのが、法蔵菩薩の本願です。その願が成就して、仏になられたお姿がいまの南無阿弥陀仏です。現在私に呼びかけられ、私の口から称えられるところの南無阿弥陀仏です。


このただ今の南無阿弥陀仏が現在私を救う働きであるとそのまま聞いているのが、救われた自覚ということです。また、最初に書いた弥陀の仏智にまかせたということです。