親鸞会で独生独死独去独来ということをよく聞きます。そんなに大事なことなのでしょうか?(頂いた質問)
独生独死独去独来とは、確かに親鸞会ではよく聞く話です。
いろいろな教義批判がなされても、親鸞会を続けていこうと思われる方の多くに共通する部分が、実にこの「独生独死独去独来だから続ける」だと私は思っております。現在の親鸞会の会員を引き留める中心の「教義」がこの、「独生独死独去独来」です。
「独生独死独去独来」は、
独り生れ独り死し、独り去り独り来る(大無量寿経下巻)
と読みます。人間は生まれて来たのが独りならば、死んでも行くのもまた独り、やって来たのも独りならば、去ってゆくのもまた独りです。確かに人間どれだけ、妻子や財宝に恵まれた、健康に恵まれたといっても死んでもっていけるわけではありません。全部置いてこの世を去っていかねばなりません。
これとあわせて、親鸞会では、御文章の以下の部分の話がよくあります。
まことに死せんときは、かねてたのみおきつる妻子も財宝も、わが身にはひとつもあひそふことあるべからず。されば死出の山路のすゑ、三塗の大河をばただひとりこそゆきなんずれ。(御文章1帖目11通・電光朝露・死出の山路)
これ自体はお釈迦様、蓮如上人が仰っていることです。
ただ、お釈迦様も、蓮如上人もこのようにいわれたのは、「だから早く阿弥陀仏に救われて下さい」ということです。
これによりて、ただふかくねがふべきは後生なり、またたのむべきは弥陀如来なり。信心決定してまゐるべきは安養の浄土なりとおもふべきなり。(御文章1帖目11通の続き)
願うべき後生とは、信心決定して参る安養の浄土のことです。また、それをひとえに願われる阿弥陀如来の本願のことです。
しかし、この「弥陀をたのむ」「信心決定」が、とてもとても普通の人には有り得ないことだと思わされている人が多いので、どうせ死んで往生もできない、できなければ地獄へ行くのであれば、せめて死んでも今やっていることが何か残る形で頑張ろうという心境になります。「独生独死独去独来」を強調するので、世の中のことに対する「どうせ死んでもってはいけないのだ」というある種の世捨て人のような心境に加えて、「まかぬタネは生えぬが、まいたタネは必ず生える」という話が加わり、死んで持って行けないもの(財産、体力、時間)を、持って行けるもの(親鸞会で言うところの宿善、仏縁)に交換しようというものです。
寄付(お布施)を募るときに「この世のものは死んでもって行けませんが、宿善は残りますから(お布施)頑張りましょう」といって勧められたと、ある人から聞きました。
そうやって人に話をする人は、おそらく本気でそのように思っておられるのだと思います。
死んで持って行けないのだから、はやく弥陀をたのめ、早く信心決定せよと勧めるのならば、まだ話はわかりますが、一方で、どうせ死んで持って行けないならこっちに出しなさいと言う人は、何を目的として話をしているのかが分かられると思います。
往生浄土は、阿弥陀仏の本願ですから、必ずどんな人でもただ今救われます。独りで死んで行く心配をするのは、助からないという前提の話です。
独りで死んで行くのが後生ではありません。阿弥陀仏とともに往生浄土遂げさせて頂くのが、私の後生です。