前日のエントリー(そのままになろうとするのは、そのままではありません(頂いた質問) - 安心問答(浄土真宗の信心について))の補足です。
阿弥陀仏の本願は、そのままの救いであり、私の方では何も付け足さないということについて、もう一つ補足をします。
阿弥陀仏の救いは、どんな人でも助けて下さる、ただ今助けて下されるとは聞いていますが、では、いつ助けて下されるのでしょうか?どうやったら助けて下されるのでしょうか?どこで助けて下されるのでしょうか?という疑問が起きてきます。
阿弥陀仏の本願は、十方衆生を相手に建てられています。その十方衆生を、助けると言うことは誰でも助けられるということです。
では、どうやって助けて下されるのかというと、南無阿弥陀仏を成就され、南無阿弥陀仏一つで救うというお働きです。
阿弥陀仏のお名前を、別名、無量寿如来、または、尽十方無碍光如来といわれます。
無量寿如来というのは、命に限りがない仏様ということですから、いつでも助けて下されると言うことです。何年前に生まれていなければ助からないとか、何年後に生まれていれば助かったということがありません。
尽十方無碍光如来というのは、阿弥陀仏の光明が十方世界にあまねく照らして遮るものがないということです。ですから、どこでも助かります。この場所にいかなければ助からないと言うことはありません。
いつ?どこで?どうやって?という疑問は、他人の救い
いつ助かるのでしょうか?どこで助かるのでしょうか?という疑問は、助かる人が他人の場合です。救いを探しているからです。
自分の子供や、親でしたら、どこへ行った?どこにいる?と探すことはあります。
しかし、自分を探す人はありません。なぜなら、自分はいつも「ここ」にいるからです。自分探しという言葉もありますが、海外へ一人旅に出ても自分を探して見つかった人はありません。探すもなにも、自分はここにいるからです。元から探す必要はありません。
また、他人でしたら、いつ会えるか?いつならいるか?ということで、尋ねたり、確認しなければ、いついるか分かりません。しかし、自分がいついるかと尋ねる人はありません。なぜなら、自分がいるのはいつでも「ただ今」だからです。
「明日助かる」と仮にしたとしても、明日になればそれは「ただ今」の私です。
「○○という場所で助かる」と仮にしたとして、そこへ行けばそこは「ここ」なのです。
いつでも助かるといっても、助かるのは私なのですから、いつでもと言われれば、それは私からいえば「ただ今」のことです。
どこでも助かるといっても、助かるのは私なのですから、「ここで」ということです。
どうやってといわれても、ただ今ここで助けるというのですから、尋ねることもいりません。それを疑う自力をすてて、一心に弥陀をたのめということです。