安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

後生の一大事について思うこと

後生の一大事について質問されることがあり、加えて親鸞会批判の真実という親鸞会弘宣部作のサイトに以下の記述があったので、思うことを書きます。

「後生という事は、ながき世まで地獄におつることなれば、いかにもいそぎ後生の一大事を思いとりて、弥陀の本願をたのみ、他力の信心を決定すべし」(帖外御文)
 私は一読して分かりました。
「死後、地獄に堕ちる」ことを「後生の一大事」といわれていることが、です。
(中略)
まとめると、

(1)「死後、ながく地獄に堕ちること」を「後生の一大事」という。
(2)その「後生の一大事」を助けてくださるのが、「弥陀の本願」である。
(3)「弥陀の本願」によって「後生の一大事を助けられたこと」を、「他力の信心を決定する」といわれる。

ということです。(その理解は違う、といわれる方があれば、正しい解釈をぜひ教えて下さい)。
大谷光真氏(本願寺門主)の新刊、「愚の力」について|親鸞会批判の真実

大前提として、親鸞会の人がいう「後生の一大事」は、真宗一般にいわれる後生の一大事とは言葉は同じでも意味が異なっています。
「親鸞会でいう後生の一大事」は、上記にあるように「死後、ながく地獄におちること」であり、これが前提ですから、その解決は限りなく可能性が低いということで語られます。
99.99999%の確率で、地獄に堕ち、0.00001%の確率で阿弥陀仏に救われるという理解です。
そのため、「阿弥陀仏に救われることがあれば、それこそ一大事だ!」という考え方になります。そこから転じて、阿弥陀仏に救われる時には「なにかすごいことが起きるのだろう」と考える方も多くおられます。

どうしてこのような理解になるのかといいますと、阿弥陀仏の本願が抜けているからです。
阿弥陀仏の本願は、ただ今救う本願であり、どんな人も報土往生させ仏のさとりをひらく身にしてみせるという阿弥陀仏の願いです。
その阿弥陀仏の本願力からいえば、助からない人は一人もありません。
法から言えば、100%救われます。地獄には堕ちることは確率的にありえません。阿弥陀仏に救われた人の中で0.0001%でも報土往生できない人はいません。
私たちの機からいえば、報土往生をするタネはなにもありませんので、自力での往生極楽は0%です。確率でいうなら100%極楽往生できません。

その100%救う本願があるのに、無常が先に来てしまったら、阿弥陀仏でも救うことはできませんので、「一大事」といわれるのです。
絶対助かるのに、万が一にも助からないということがあれば一大事だという阿弥陀仏の御心なのです。

それ、当流親鸞聖人のすすめましますところの一義のこころといふは、まづ他力の信心をもつて肝要とせられたり。この他力の信心といふことをくはしくしらずは、今度の一大事の往生極楽はまことにもつてかなふべからずと、経・釈ともにあきらかにみえたり。(御文章2帖目10通

とありますように、「一大事の往生極楽」といわれている部分があります。
これについては、機からいえば100%極楽へ行けない者が、阿弥陀仏の本願力によって、極楽往生し仏になることができるのですから、これこそ一大事です。

どちらも「一大事」は、「ありえないことが起きた」という意味で使われています。
「後生の一大事」が親鸞会でいうように「地獄へ墜ちる」にしろ、上記の御文章のように「往生極楽」にしろ、「ありえないことが後生におきる」ことが「後生の一大事」です。

阿弥陀仏の本願力からいえば「地獄に堕ちる」というのは「ありえないこと」です。その「ありえないこと」が、無常が先に来るようなことがあり「地獄におちるようなことがあれば一大事」という意味で「後生の一大事」です。
また、私たちの機の姿からいえば、「報土往生し、仏に生まれる」ということは「ありえないこと」です。その「ありえないこと」が起きるから、「後生の一大事」です。

いづれにしろ、蓮如上人が御文章に「一大事」とか「後生の一大事」といわれるのは、「本願力から言えば絶対に助かる。助からないということはありえない」という、阿弥陀仏の本願の働きが前提で書かれています。

「親鸞会の後生の一大事」は、「ほとんどの人(あるいは全ての人)は地獄に堕ちる」が大前提として書かれています。ですから、「たすかるなどと言うことがあったらそれこそ一大事」と思い、20年聞いても、30年聞いてもわかるものではないと聞かされても驚かないのです。

出発点が、「地獄におちる」で始まるのか、「ただ今必ず救う阿弥陀仏の本願」かでは、御文章の内容も全く読めないと思います。

正しい解釈があるなら教えて欲しいということでしたので、親鸞会の人に、真宗一般の解説は過去にいろいろな人がしてきました。それでも自説を変えたことはありませんでした。いろいろと親鸞会と縁のあった方とお話したことを通して思うことを、引用した文章を使って書いてみました。

(0)阿弥陀仏は、どんな人でもただ今救う本願を建てられた。この本願で救えない人は一人もない。
(1)どんな人でもただ今救う本願があるのに、万が一にも「死後、ながく地獄に堕ちること」「往生極楽できないこと」があったら、大変であるということを、「後生の一大事」という。
(2)阿弥陀仏の本願に救われると、絶対に自力では仏になれない凡夫が報土往生し、仏に生まれるから「往生極楽の一大事」といわれた。

まず助からない私を中心に御文章を読むか、ただ今必ず救う本願を中心に御文章を読むかでその内容は全然変わってきます。

繰り返しますが、「私を救う阿弥陀仏の本願」が出発点です。
自力で往生極楽できないものに対して、「お前は往生出来ないぞ!一大事だぞ!」とどれほど言っても、まったく一大事ではありません。誕生日に1才年が増えたことを一大事といわないのと同じ事です。
「絶対救われる本願があるのに、往生出来ないなんてありえない。しかし信心を獲得せずば、そのありえないことが起きるぞ、一大事だぞ!」という意味で「他力の信心を獲得せよ」と蓮如上人はいわれました。