安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

他力の世界は遠く及ばないところではなく、私へと向かってこられるもの(MMAさんのコメント)

MMAさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

(中略)
確かに、歴代善知識の書かれた御聖行を見ても「阿弥陀仏に現在救われなさい」ばかりで救われる為の近道的な方法論は一切説かれていないようです。他力の人からすれば「現在阿弥陀仏に救われてくれ」の、それしかないのでしょうと思います。凡夫の考えや想像の及ばない他力の世界に出させて戴くためには、ひたすら阿弥陀仏に心をかけて現在救われるしかないのかと無理に理解した次第です。
自分で書いいながら、よくわからなくなってしまいました。(MMAさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20100214/1266098661#c1266207013

他力の信心とは、空の向こうのその先の、遙か遠い世界のことではありません。想像も及ばないと言われると、そのように思うかも知れませんが、阿弥陀仏の方から回向してくだされるのです。

すなはち利他回向の至心をもって信楽の体とするなり(教行信証信巻)

真実信心とは、阿弥陀仏が回向して下される至心を体とするといわれています。

この至心はこれ至徳の尊号をその体とするなり。(教行信証信巻)

至心は、南無阿弥陀仏(至徳の尊号)を体とするといわれています。
ですから、真実信心とか、他力の信心と言ってもその体は南無阿弥陀仏の名号にあります。その名号は、阿弥陀仏が私の方へ向かって差し向けて下されるのです。
雨は私が降られようと思って向かっていくものではなく、私に向かって降ってくるものです。高いビルの屋上にいても、地面にいても、平等に私に降ってきます。遠く遠くにあるのではなく、私は私へと向かって来て下されるのが南無阿弥陀仏です。

前提として、自分が働くものではなく、すでに働いておられる阿弥陀仏がおられると言うことです。ですから、無理に理解をするものでもなく、回向してくだされる南無阿弥陀仏によって救われます。