安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「信心を心の中に探すのは間違いでしょうか?」「では信心はどこにあるのでしょうか?」(頂いた質問)

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Peing(ペイング) -質問箱- 匿名で質問を受け取ろうで頂いた質問について書きます。
短く書いたので、補足としてこのブログに書きます。


浄土真宗辞典から紹介します。

しんじつしんじん 真実信心 
真心ともともいう。うそいつわりのまじわらない心のこと。善導・法然は衆生が起こす心としたのに対して、親鸞はこれを仏心と捉え、第十八願文に説かれる至心のこととし、その至心が衆生に回向されるとした。
「信巻」には「この心すなはちこれ不可思議不可称不可説一乗大智願海、回向利益他の真実心なり。これを至心と名づく。」(浄土真宗聖典 (註釈版) 第ニ版P234)とある。

信心は、このように仏心であるので私の心の中を探しても出てきません。「私は信心を獲ました」という人であっても、自分の心の中を探しても信心(または真心)が見つかりません。
では、信心はどこにあるのかということですが、南無阿弥陀仏の中にあります。

そのことは、同じく教行信証信巻に、

この至心はすなはちこれ至徳の尊号をその体とせるなり。(浄土真宗聖典 (註釈版) 第ニ版P232

http://ur2.link/vNB4

この「至徳の尊号」が南無阿弥陀仏です。至心(信心)は、南無阿弥陀仏がそのものがらとなっています。
ですから、信心とは何かといえば、それは南無阿弥陀仏ということになります。


しかし、南無阿弥陀仏を私に与えて下さったのが信心とするならば、やはり私の心の中にあるのではないかということで疑問に思うヒトもあります。それについては法然上人の歌を紹介します。
「月かげのいたらぬさとはなけれども ながむるひとのこころにぞすむ」
「月かげ」というのは月の光のことです。月の光が届かない場所は無いけれども、月の光が宿るのは、眺める人の心であるといわれます。

月の光に喩えた時に、実際にそれが宿るのは私の心以外では水面です。

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洸さんによる写真ACからの写真
例えば目の前の川の水面に月の光が宿ってるとします。そこには確かに月の光が宿っているのですが、川の水を持ち帰って分析しても、月の光の成分はどこにもありません。同じように、南無阿弥陀仏は私の心に至り届くのですが、私の心をいくら分析しても南無阿弥陀仏は出てきません。 南無阿弥陀仏は南無阿弥陀仏ですから、私の心に届いても私の心は煩悩という点では減ることも増えることもありません。それは、先ほどの川の水でいえば、月の光が映っても写らなくても川の水の成分が変わらないのと同じことです。

川の水の成分は変わらなくても、確かに月の光は宿っています。それは、月が有るから宿るのです。また、水面の月は天上の月と別物かと言えばそうではなく光という点では同じです。


南無阿弥陀仏は私の心という水面に宿って下されば信心といいますが、水をどれだけ探っても南無阿弥陀仏は出てきません。ただ南無阿弥陀仏は常に私という水面に映って下さって離れることはありません。
私の心という水面をどうにか変化させて南無阿弥陀仏という月の光が宿るのではありません。宿ってないのは、心の見つめかたが悪いのではなく、月の光が届かないように疑いの蓋をしているからです。


ただ今私を照らして下さる、南無阿弥陀仏を仰いでみてください。それが南無阿弥陀仏と念仏申すことです。その南無阿弥陀仏が私を救うと働きそのものです。ただ今助けるという仰せを仰いで、ただ今救われて下さい。

ちなみに浄土宗の宗歌「月影」になっています。また高校野球の強豪校でもある大阪府上宮高校の校歌でもあります。本日、教えていただき初めて知りました。

上宮高校の校歌