安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

聴聞とは、無名無実に聞くことではありません(MMAさんのコメント)

MMAさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

 いつも教えて戴いているように現在救われようという気持ちでやっております。これは皆、視覚での行ですが、聴聞に極まるとか聴聞が大事と聞くとやはり聴覚での行が大切なのかと思ってしまいます。(それじゃ、耳の聞こえない人はどうなるんだという疑問も出てきますが)(MMAさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20100214/1266098661#c1266227026

聴聞に極まると言われたのは、何を聞くかと言えば、「聞其名号」と、南無阿弥陀仏を聞くことを言います。

されば『経』(大経・下)には、「聞其名号信心歓喜」と説けり。「その名号を聞く」といへるは、南無阿弥陀仏の六字の名号を無名無実にきくにあらず、善知識にあひてそのをしへをうけて、この南無阿弥陀仏の名号を南無とたのめば、かならず阿弥陀仏のたすけたまふといふ道理なり。(御文章1帖目15通・宗名当流世間

ただ無名無実に聞くのではありませんと言われているのは、実質のともなわないことではないということです。実質のともなわないというのは、必ず救うという南無阿弥陀仏のとおりに救われないということです。
聞其名号とは、南無阿弥陀仏の通りに救われる事をいいます。

ですから、目で文字を読んでも、耳で聞いても、それが「無名無実」では、見ていない、聞いていないと言うことです。
南無阿弥陀仏は「文字」でもないですし、「音」でもありません。阿弥陀仏の私を助けようという願力のお働きそのものなのです。ですから、耳に音声で聞こえるとか、視覚情報で入ってくるものでもなく、私へ私へと働いて下される南無阿弥陀仏です。
その南無阿弥陀仏の名号をたのめば、必ず阿弥陀仏が助けて下されるようになっております。聞きなさいとは、たのめということです。聴覚や視覚のことではありません。