安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

今一つなのは、聞即信ではないから(暦さんのコメント)

暦さんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

まず、直ちにきたれ、汝を護らん、の阿弥陀さまの本願を聞いてください、とのことですが、言葉は何度もきいています。でもきこえないので、Bさんと同じような、私はなぜ助からないのでしょうか?(というかなぜ聞こえないのか)という嘆きとなるのですが。。耳をすませばきこえるわけでもないでしょうし、聞いてくださいといわれても、ああどうしたものか。。と凹みぎみなのですが。。。(暦さんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20100208/1265635525#c1266079773

言葉は聞いても、今一つ納得できないとか、今一つスッキリしないというのは、聞いてはいても信じていないということです。聞即信といわれるように、聞いたのと信じたのがそろわねば、如実の聞ではありません。
本願を聞くと言うことは、本願に対して私が「聞いた」ということを付け加えなければならないものではありません。聞いた上で「確かにそうだ」とか「本当だ」と私の判断を差しはさまねばならないのでは、聞いたのが信心とはいえません。

「直ちに来たれ」「汝を護らん」という仰せを聞いたことにたいして、「だけれどもこんな者がどうして救われるでしょうか?」「だけれどもどうやって行けばよいでしょうか?」という思いを混ぜないから、そのまま聞いたとか、聞いたのがそのまま信心とか、聞いたことが救われたことといわれます。

またきくといふは、信心をあらはす御のりなり。「信心歓喜乃至一念」といふは、「信心」は如来の御ちかひをききて疑ふこころのなきなり。(一念多念文意)

聞くということは、信心をあらわされた言葉ですから、「信心歓喜乃至一念」と本願成就文にある「信心」は、阿弥陀如来の本願を聞いて疑う心のないことであるといわれています。
聞いたのが信心であり、信心は本願に疑いないことをいいます。

本願を聞きなさいとは、別の言葉で言えば疑いをすてよ、計らいをすてよということです。雪は空から降るもので、どこかの雪山の頂上にじっとしているものではありません。その雪のように、音もなく私に降りかかってきて下されるのが願力です。自分の手元でなんとか聞こう、耳を澄ますのは自分の心の声を聞いているのです。
本願は実際に働いておられます、家の中をどれだけ探しても雪が降っているのがわかりませんが、外をみれば明らかなことです。
私の心の中から出てくる信心でも、本願でもありません。阿弥陀仏の方からよびかけられる本願の呼び声を聞いて下さい。