安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「私」はどうして救われないのでしょうか?について(Bさんのコメント)

Bさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。引用のコメント以外のコメント部分については、別のエントリーで書きますのでよろしくお願いします。
こちらの質問に答えていただき、質問の意図がよりわかりました。

(中略)
阿弥陀仏が十劫の昔に、真実の心がない私に、真実信心を回向して下されるはたらきのある南無阿弥陀仏の御名号をすでに成就なされ、そのはたらきによって私が助けられるのならば、「私」は、どうして救われないのでしょうか?

という質問なのです。(Bさんのコメント)
(全文は下記URLへ参照)

平たく言えば、理屈から言えば助かるはずなのに助かっていないのはおかしいのではないでしょうか?という疑問だと思います。

回答としては二つあります。
一つは、その質問は助ける方にするものであって、助ける力の無い人間にする質問ではありません。
「どうして助からないのですか?」は、助ける方に対して起こす疑問です。
先のコメントで、病気と医者と薬の譬えをだしておられましたが、病人がなぜ病気が治らないのでしょうか?という疑問は、医者に聞くことで、同じ病院の待合室にいる人に聞いても、待合室にいる人が病気を治すわけではありません。

阿弥陀仏は現に働いておられるのですから、Bさんを助けようと働いておられる阿弥陀仏に聞いてみて下さい。

もう一つの回答は、「どうして助からないのですか?」という心が「道理から言えば助かるのに助からないのはおかしいのではないか?」と、法に対して頭が高いからです。法を理解しようとしているからです。

救われるべき私になって助かるのではありません。南無阿弥陀仏が成就したと言うことは、大変有り難いことであって、「完成したんだから早く助けなさい」というのは、法に対して頭が高いのです。
親鸞聖人が「帰命は本願招喚の勅命なり。」と仰ったのも、阿弥陀仏の「直ちに来たれ、汝を護らん」というよび声をそのまま聞くのが、阿弥陀仏の本願を信じることだからです。
勅命ですから、「直に来たれ」との呼び声を理解したのではなく、そのまま聞いたのが信じたということです。

法の上から必ず救うとか、必ず救うのだから救われて当然というのは、阿弥陀仏が言われることで、自分自身に対していえないことです。

噫、弘誓の強縁は、多生にも値ひがたく、真実の浄信は、億劫にも獲がたし。たまたま行信を獲ば、遠く宿縁を慶べ。(教行信証総序

親鸞聖人が、「たまたま行信を獲ば」と仰ったのは、法に対して頭を下げて仰っていることです。南無阿弥陀仏が成就して、回向して下さるのだから当たり前だとは言われていません。「遠く宿縁を慶べ」といわれています。
頭を下げたのは私ですが、南無阿弥陀仏の法の尊さに私の頭が下がるのです。

Bさんのお気持ちとしては「現に今助かっていない現実」から疑問を起こされたと言うことですが、その疑問とは、「道理に合わない(救われて当然なのに、話が違うのではないか?)」ということでしょうか?

阿弥陀仏と私を親子に喩えることが、よくありますが、Bさんの質問は、親が子に○○するのは当然なのに、なぜ○○してくれないのかと聞かれているように読めてしまいます。
阿弥陀仏の本願は常に働いておられます。どうか阿弥陀仏の本願を聞いていただきたいと思います。