安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

このままのお救いと聞くと、このままにしていればいつか阿弥陀仏の救いにあう日も来るのではないかと考えます。それではよくないとは思うのですが……(頂いた質問)

このままのお救いと聞くと、このままにしていればいつか阿弥陀仏の救いにあう日も来るのではないかと考えます。それではよくないとは思うのですが……(頂いた質問)

そのうちいつかは…と考えるのは、阿弥陀仏の本願とは違う考えです。
なぜなら、「そのうち」と考えるのは未来に望みをつなぎつつ、現在は救われないと決めているからです。

確かに「そのうち」としてしまえば、心はいくぶんかは楽になります。また、視線を過去に向けて「自分はいままで○○だったから」とか、「きっと過去世に○○だっから」と救われない理由を合理化する人もあります。そのように、過去または未来に視線を向けるのは間違っています。

なぜなら、阿弥陀仏の本願は「私を助ける」本願だからです。「私」は、「この私」ですから、「ただ今」にしか存在していません。ですから、「ただ今お前を助ける」という仰せが南無阿弥陀仏であるということです。

「ただ今助ける」と聞いても「ただ今助からない」現状を心苦しく思う方もあります。しかし、自分の苦しさを減らすために過去や未来に視点を移してもそれは何の解決にもなりません。ただ今救うと差し向けられる救いの法を聞いてください。

御一代記聞書にはこうあります。

(47)
一 わが心にまかせずして心を責めよ。仏法は心のつまる物かとおもへば、信心に御なぐさみ候ふと仰せられ候ふ。(御一代記聞書47 浄土真宗聖典 (註釈版) 第ニ版
(現代語版)
「自分の心のおもむくままにしておくのではなく、心を引き締めなければならない。そうすると仏法は気づまりなものかとも思うが、そうではなく、阿弥陀如来からいただいた信心によって、心のなごむものである」と、蓮如上人は仰せになりました。

http://goo.gl/aVe7p2

自分の心にまかせていては、ただ今救うの南無阿弥陀仏から逃げるばかりです。一度でいいです。南無阿弥陀仏から逃げずに、仰せをそのまま聞いて下さい。ただ今救われて下さい。