安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

なぜ救われないのかという問いについて(Bさんのコメント)

Bさん、また多くの方からコメントを頂きました。有り難うございました。

すべては阿弥陀仏のお力なのであれば、「まだですか?」という心が、私にあるからとかないからとか、そういう「私の心」は、関係ないのではないでしょうか。その「まだですか?」という心がはたらくかどうかに関係なく、先手で助けていただけるのですから。
「私の心」を問題にされる限りは、私の疑問は解決しません。(Bさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20100203/1265196847#c1265198732

回答の前に、質問コメントを読んで一つ不明なところですが、「すべては阿弥陀仏のお力なのであれば」という「なれば」というのは、「他の可能性もあると考えている」ということでしょうか?

「「私の心」を問題にする限り、疑問は解決しません」とのことでしたが、阿弥陀仏がなぜ「阿弥陀仏の力で救う」と本願を建てられたのは、「私の心」の問題からおきています。

私の心について、教行信証には以下のように書かれています。

しかるに無始よりこのかた、一切群生海、無明海に流転し、諸有輪に沈迷し、衆苦輪に繋縛せられて、清浄の信楽なし、法爾として真実の信楽なし。ここをもつて無上の功徳値遇しがたく、最勝の浄信獲得しがたし。(教行信証信巻(本)

しかるに無始より今日まで、すべての人は、迷いの世界を回って、真実の信心がありません。本から真実の信心がありません。それゆえ、無上の功徳である南無阿弥陀仏にあうこともできず、真実信心を獲得することもできない。

「法爾として真実の信楽なし。ここをもつて無上の功徳値遇しがたく、最勝の浄信獲得しがたし。」といわれている部分は、「もともと真実信心がないから、最勝の信心をうることができない」と仰っています。

救われないということは、浄土往生ができないということですが、それは私たちに本来真実信心がないからであり、言い換えますと阿弥陀仏を信じる力がない、疑いの心しかないからです。

元の質問である
阿弥陀仏が十劫の昔に南無阿弥陀仏の御名号をすでに成就なされ、そのはたらきによって私が助けられるのならば、「私」は、どうして救われないのでしょうか?

に対して、直接的な答えは何もないように思います。(Bさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20100203/1265196847#c1265198732

これに対しては、上記の教行信証の御文を引用すれば
「法爾として真実の信楽なし。ここをもつて無上の功徳値遇しがたく、最勝の浄信獲得しがたし。」ということになります。

それでは、助からないことになるではないかと思われるかも知れませんが、そういう私を助けるために、阿弥陀仏は真実信心を回向して下されるのです。
私が往生浄土する働きは、阿弥陀仏のお力であり、南無阿弥陀仏のお働きです。
なぜ私が救われないのかは、真実の信心がないからです。

Bさんの質問は、薬のたとえも含めて、言葉をかえると、真実の信心がないものが、なぜ真実信心を獲得するのかということになると思いますが、これは阿弥陀仏の五劫思惟の結果なされたことですから、私からすれば不可思議の願力としかいえません。阿弥陀仏が回向して下されるからです。

不可思議の願力であって、矛盾しているとか、虚仮であるということではありません。

「なぜ私を今助けてくださらないのか?」という疑問は「わが身のこと」として考える上では大変大事な事ですが、心から言えば、阿弥陀仏が働いておられないという思いから出てくる疑問のようにも思いますが、そのあたりはいかがでしょうか?