安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「早く助かりたい」と思う心は、結局のところは本願を疑う心なのでしょうか」(Peing-質問箱-より)

f:id:yamamoya:20211221171302p:plain
Peing-質問箱-より

「早く助かりたい」と思う心は、結局のところ本願を疑う心なのでしょうか。 | Peing -質問箱-

質問箱には以下のように書きました。

「早く助かりたい」は、言葉を変えれば「今は助からないので、早く助けて欲しい」ということになります。
本願を疑う心になります。ただ、「そう思わないようにすれば救われる」というものでもありません。

上記に加えて書きます。

質問箱の方にも書きましたが、このように質問をされるのは、自分の心の中でどういう心が本願を疑う心なのかを知りたいからだと思います。


そして、自分の心を分析して、どの心が疑う心なのかを突き止めてそれを捨てよう。(思わないようにしよう)と言うふうに思っておられるのかもしれません。
しかし、そのように考えると、失敗をしなければ救ってくださる。あるいは、正解のルートを進んだら助けてくださるとの考えに行き着いてしまいます。ご存知のように、阿弥陀仏は私の側の何かを見て助ける人と助けない人を区別しているわけではありません。


阿弥陀仏は私がどんな状態であれ、どんな心持ちであっても、常に私に向けて、お前を助けると呼びかけておられます。それに対して私がその救いの手を払い退けているだけです。

どうしてそうしているのかといえば、自分の中でこうなったら助かる、こうなったら助からないと決めているわからです。 そうして欠点を修正さえすれば助けてもらえる。間違いを犯さなければ助けてもらえると考えてしまいます。そのように考えるのも本願を疑う心です。


質問にある「早く助かりたい」は本願を疑う心ですが、そう思わなければ助かるというものではありません。
「早く助かりたい」と思う事自体は、なかなか起きない心です。そういう心があればこそ救いを求めてあれこれ考えます。いつか助けてくださるだろうとかそのうち何とかしてくださるだろうと阿弥陀仏の救いを待ち構えている人よりは自分の問題として真面目に考えているのだと思います。


ただ問題は自分の「早く助かりたい」を優先して、南無阿弥陀仏を後回しにして聞かないからです。私の「助かりたい」が先になり、阿弥陀仏の「助ける」が後になっています。それでは、順番が違います。そうなると、すでに阿弥陀仏が「ただ今助ける」と呼びかけられている声に耳を閉ざしていることになります。阿弥陀仏の呼び声をなかったことにして「早く助かりたい」と言っていることになります。その阿弥陀仏の呼び声を「なかったこと」にするのが、本願を疑っているということになります。

阿弥陀仏の本願はどうして建てられたのかということをよくよく考えると、私を助けるために私の要望に先立って建てられたものでした。そのことを、私に向かって差し向けられるということで「回向」といわれる。

そのことを、親鸞聖人はご和讃で

(38)
如来の作願をたづぬれば
 苦悩の有情をすてずして
 回向を首としたまひて
 大悲心をば成就せり(正像末和讃 - WikiArc

と説かれています。


「早く助かりたい」と私が思うより前から、苦悩の有情をすてずして、ただ今助けると回向されているのが南無阿弥陀仏です。今助かっていないことは、何か貴方の身の上に欠点があってのことではありません。南無阿弥陀仏を聞いていないだけです。ただ今救うの南無阿弥陀仏にただ今救われて下さい。