安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「お育て」というように、聴聞をしていると、徐々に、段々、疑いが晴れていき、最後には信の一念になるのでしょうか。それとも信の一念は全く予期できないものなのでしょうか?(頂いた質問)

f:id:yamamoya:20200519222951p:plain

「お育て」というように、聴聞をしていると、徐々に、段々、疑いが晴れていき、最後には信の一念になるのでしょうか。それとも信の一念は全く予期できないものなのでしょうか?(頂いた質問)

匿名掲示板peing.netで以前頂いた質問について書きます。
これについて、掲示板の方に書いた私の文章は

徐々に疑いが晴れることはありません。
そういう意味で、信の一念は予想できません。

でした。
これに、付け加えて書きます。



お尋ねの文章にもありますが、「お育て」という言葉が浄土真宗にはあります。阿弥陀仏が、私を救う為に種々にいろいろと手立てを尽くされて救って下さることを指していう言葉です。丁度、菊の花を咲かせる為に、いろいろと手間をかけてやっと花を咲かせることができるようなものとして以下の歌も詠まれています。(読み人知らず)

幾たびか お手間かかりし 菊の花

これは、菊(きく)の花に手間がかかることを、私が本願を聞く(きく)ことに阿弥陀仏がお手間をかけられていることに譬えて詠まれたものです。



こういう表現は、この歌に限らずいろいろとあります。阿弥陀仏が私を救う為に大変なお手間、時間が掛かったということで親鸞聖人はこのように言われています。

たまたま行信を獲ば、遠く宿縁を慶べ。(教行信証総序)

思いがけなく本願を信じ念仏する身になったならば、阿弥陀仏の遠い過去からのお育てをよろこびなさいと言われています。

菊の花が、一晩で咲くことがないように、阿弥陀仏が本願を建てられて成就してより私が救われるまでの間にも、個人差はありますがいろいろなお育てがあります。

そういうことから、お尋ねのように「徐々に、段々、疑いが晴れていき」というように思われるのだと思います。
これについては、半分その通りのところもありますが、半分はそうではありません。

半分その通りについて

いわゆる教義理解についての疑いというのは、話を聞いていくと段々と晴れていきます。
例えば、「なぜ聴聞が大事なのですか?」とか「阿弥陀仏は他の仏様とどこが違うのですか?」というようなものは、ただ知らない状態では疑問もいろいろと生まれてきますが、聴聞を重ねていくといろいろと知識も身につき、段々と知らないことによる疑いはなくなっていきます。そのうち大体は分かったという状態になります。

半分そうではないについて

そこで、半分はそうではない部分について書きます。
上記のように聞いていけば大体晴れる疑問というのがある一方で、晴れない疑問も出てきます。
それが、いわゆる「疑い」(本願疑惑)というものです。


こちらの「疑い」は先のものとどう違うかと言えば、教義的な疑問はなくてもなお残る計らいのことをいいます。
具体的にいうと、自分の行為によって阿弥陀仏の救いに遇おう、または救いの足しにしようというものです。疑いのことです。
言い替えると、こうしたら救われるだろうかとあれこれ考えること全般をいいます。この計らいは、段々なくなるというよりは、救われるまでずっと有り続けるものです。
阿弥陀仏に救われると「どうしたら救われるか」は確かに考えなくてもよい話になるので、問題にならなくなります。


信の一念は予期できるかどうかについて

これについては予期はできません。しかし、全く分からないかと言えば阿弥陀仏の本願から言えばそうでもありません。
なぜなら、阿弥陀仏はいつでも「ただ今救う」と呼びかけられているからです。その阿弥陀仏の本願通りに言えば、「ただ今救われる」「ただ今信心決定の身になる」訳ですから、信の一念といっても「ただ今」のことです。
その「ただ今」を、「いつなんだろうか」と考えると「予期できるのか」という問いにもなってきます。そのようにいつなんだろうかという予想をする意味において、「ただ今の救い」は出てきませんので分からないということになってしまいます。
まずは、ただ今助けるという阿弥陀仏の仰せを聞いて下さい。ただ今救われます。