安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

信心決定の一念は驚天動地の体験ではないのですね?(aさんのコメント)

aさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

(略)口伝抄に、(涅槃の真因たる信心の根芽わずかにきざすとき報土得生の定聚の位に住す、注釈版875ページ)、とあってびっくりしました。わずかにきざすのが信心決定の一念なら、とても驚天動地の体験ではないですね。私のこの理解でよろしいのでしょうか? 親鸞聖人、蓮如上人と違わないんでしょうか?(aさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20110328/1301290051#c1301393896

aさんの言われるとおり、信の一念は驚天動地の体験ではありません。

口伝鈔に書かれた部分は、信の一念について書かれた部分です。
「報土得生の定聚の位に住す」のが「涅槃の真因たる信心の根芽わずかにきざすとき」だと言われています。
ですから「涅槃の真因たる信心の根芽わずかにきざすとき」は、信楽開発の時剋の極促といわれた、信心が私の上に開けおきた最初の時です。

「信楽開発の時剋の極促」に「驚天動地の体験」があるという考えは、南無阿弥陀仏が「喜びの固まり」のように思うからではないかと思います。

私は以前そのように考えていました。
不可称不可説不可思議の功徳は行者の身にみてり*1」(正像末和讃31)とか、「無上甚深の功徳利益の広大なること、さらにそのきはまりなきものなり*2」(御文章5帖目13通)と聞いて、何かとてつもない功徳が私の体の中に入ってくるようにイメージしていました。とてつもない功徳を頂いた喜びが、信楽開発の喜びだから、この世のどんな宝をもらったよりも凄い喜びが起きるのだろうと思っていました。


しかし、それは間違いです。
「不可称不可説不可思議の功徳」も「無上甚深の功徳利益」も南無阿弥陀仏のお働きです。南無阿弥陀仏が私の上に働いて下さっているのが信心であり、実際に私の上に信心となって働いて下さった最初の時を信の一念といいます。
私をただ今往生定まる身、現生正定聚の身にして下さるお働きであり、浄土往生すれば即成仏させるお働きです。この世の宝を頂いた喜びと「桁が違う」のではなく、「ものがら」が違うのです。

ただちに踊り上がって喜ぶことがあれば、前もってそれを期待している時です。前もってその価値がわかる時です。
宝くじが当たったり、選挙に当選して喜ぶのは、「当選金」や「当選した事実」の価値が分かっているからです。
私には、正定聚とか往生即成仏といわれてもそれがわかる智慧はありませんので、それを理解できた上で喜ぶ心は信一念に起きません。分かるといっても、南無阿弥陀仏が「直ちに来たれ」と呼び続けておられることぐらいです。


仮に信の一念に大きな喜びが起きるとして、「信心=踊り上がって喜ぶこと」とするならば、救われた最初の時が喜びの頂点であとは横ばいということになります。信心は死ぬまで相続するのですから、喜びも横ばいに相続するということになります。


実際に有り難いとか尊いと喜ぶ心は、信一念のあと時間がたつほど大きくなっていくものです。年を取るほど有り難いと言われていた方もありました。救われたあとに阿弥陀仏のお育てに預かって、いろいろと知らせて頂くからです。

喜ぶ心は、信の一念にまとめて頂くものではありません。阿弥陀仏の本願を聞かせて頂くことで、だんだんと知らされ喜ばせて頂くものです。それは「喜び」の部分であって、往生定まったことが変化するのではありません。現生正定聚の身になったことは、信の一念から死ぬまで変わることも、壊れることもありません。
そのような身にして頂いたことを喜ぶ心が、阿弥陀仏のお育てによって大きくなっていくのです。

*1:五濁悪世の有情の 選択本願信ずれば 不可称不可説不可思議の 功徳は行者の身にみてり・浄土真宗聖典(註釈版)P605

*2:それ、南無阿弥陀仏と申す文字は、その数わづかに六字なれば、さのみ功能のあるべきともおぼえざるに、この六字の名号のうちには無上甚深の功徳利益の広大なること、さらにそのきはまりなきものなり。されば信心をとるといふも、この六字のうちにこもれりとしるべし。さらに別に信心とて六字のほかにはあるべからざるものなり。浄土真宗聖典(註釈版)P1200