安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「まだ」救われないのか?は阿弥陀仏の本願を後手にしているから(Bさんのコメント)

Bさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

「私は」どうして救われないのか?という質問だと「救われます」と答えられそうですので、私はどうして「まだ」救われないのか?と言い換えます。(Bさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20100202/1265115798#c1265163185

回答します。
結論から言いますと、先手の阿弥陀仏の本願を聞いておられないからです。
阿弥陀仏の本願を、「まだ」という言葉であらわすのは、自分はすでに救われようと思っている、救いを請求しているのに返事が「まだ」来ないという言葉です。

阿弥陀仏の本願は、先手の本願であり、私は後手になるのです。
「まだ」という言葉は、阿弥陀仏の本願に先立って、私が先手を打ち、救いを祈願請求する心です。
人から物を貰おうとするときは、「(まだ貰えないが)どうしたら貰えるだろうか?」「(まだ手に入らないが)どうしたら手に入るだろうか」と、自分が先になり、それにはどうしたらよいだろうか?と「か?」が後に必ずつきます。
その場合は、相手の返事を聞くまでは安心ができません。お金の貸し借りでも、どうしても人から借りなければならないときは、金融機関でも個人でも「どうかお金を貸してくれませんか?」と、いう願い頼みは、相手が「貸します」と返事しない限り、「貸してくれるだろうか?」の疑いが晴れません。

阿弥陀仏の救いは、「祈願請求」するものではありません。「まだか、まだか」というのは、阿弥陀仏の救いを祈願請求するものだと思われているのではないかと思います。
阿弥陀仏の救いは、祈願請求するものではなく、「投託信用」ともいわれますが、あてたよりにし、南無阿弥陀仏の仰せにしたがい、南無阿弥陀仏にまかせるものです。

自分が先手で祈願請求する場合は、相手の返事があるまでは疑いが晴れません。
それに対して、相手にまかせる場合は、相手が先手になります。

例えば、相手から何かお土産を頂くような場合は、相手が先手で「これは○○へ行ったお土産です、どうぞ食べて下さい」と差し出します。あげましょうが先手の時は、「どうかもらえないでしょうか?」という疑いはありません。
あげましょうの先手が聞こえたときが、頂きますと相手の申し出に従うのです。

阿弥陀仏の本願も、「ただ今救うぞ」の先手が聞こえたときが「聞即信の一念」です。助けられるばかりなりと、南無阿弥陀仏があてになるのです。

これは、先手後手ということのたとえですが、阿弥陀仏の本願と私はどちらが先手かということが、今回の質問の答えになります。

先手の本願と聞けば、「まだですか?」ということはないという回答になります。
私が先手と聞けば、「まだですか?」と、阿弥陀仏の返事を待ち続けても疑いは晴れません。「経巻口なし木像もの云わず」といった人もありますが、私を先手にして返事を待って疑いを晴らそうというのでは、いつまでも疑いは晴れません。

弥陀・観音・大勢至 大願のふねに乗じてぞ
 生死のうみにうかみつつ 有情をよばうてのせたまふ(正像末和讃53

阿弥陀仏の方から、生死の海に沈んでいる私にむかって、「ただ今救うぞ」と先手で呼びかけて弥陀の大願の船に乗せて下されるのです。
呼びかけて下さる本願が、先手ですから、まだですか?と願い求め、向こうの返事を聞いてからそれから定まる往生ではありません。

ただ今救うと先手ではたらかれる南無阿弥陀仏を聞いて、ただ今救われて下さい。