安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

自分でなんとかするか、阿弥陀仏を信用していないか(別の質問者さんのコメント)

別の質問者ですさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

阿弥陀仏が十劫の昔に南無阿弥陀仏の御名号をすでに成就なされ、そのはたらきによって私が助けられるのならば、それに対して疑っている、あるいはそっぽを向いている「私」は、どうして救われないのでしょうか?(別の質問者ですさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20100128/1264684628#c1264721346

前回の質問と違うのは、「私」はとなっているところです。
結論から言いますと、疑っているからであり、そっぽを向いているからです。

阿弥陀仏の本願の働きから言えば、絶対に助けることができます。また、阿弥陀仏の大慈悲は平等なので、ある人は助けようと働くけれども、ある人は助けないという仏様でもありません。

仏様の側からは、何も問題はありませんが、阿弥陀仏の仰せは、二河白道の譬えから引用しますと

西の岸の上に、人ありて喚ばひていはく、〈なんぢ一心に正念にしてただちに来れ、われよくなんぢを護らん。すべて水火の難に堕せんことを畏れざれ〉と。(教行信証信巻より

というよび声です。

それに対して、そっぽを向くというのは、直ちに来たれと言われてもその通りにしないということです。また疑っているということです。
私が往生するということを、自分の力でなんとかしようとする人は、そっぽを向いてしまうかもしれません。「直ちに来たれとは言われるけれども、私は貴方の手は借りません。自分でなんとかします。」ということかもしれません。

自分の力でなんとかできると思う場合は、自分以外の人の手にまかせようとはしないものです。「任せて下さい」と言われても、なかなかそのとおりにならないものです。

また、「直ちに来たれ」と言われるけれども、本当に信用してよいものだろうかという考えから、そのようにならないということもあります。

「直ちに来たれ、汝を護らん」という阿弥陀仏のよびごえに、そっぽを向いている、疑っているということですが、上記に書いたように、自分でなんとかしようとしているのか、あるいは、阿弥陀仏をそこまで信じられないということでしょうか。遅くなって申し訳ございませんが、おたずねします。

いづれにしろ、私が報土往生し、仏のさとりをひらくということは、阿弥陀仏の本願力によらねばなりません。南無阿弥陀仏のお働きによるものです。
また、そうだからこそ、私の性格や、性別、能力に関係なく、ただ今救われます。