安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

本願の目当ては私であって、観察者ではありません(頂いた質問)

阿弥陀仏が十劫の昔に南無阿弥陀仏の御名号をすでに成就なされ、そのはたらきによって私が助けられるのならば、それに対して疑っている、あるいはそっぽを向いている者は、どうして救われないのでしょうか?(頂いた質問)

回答します。
全部阿弥陀仏の働きならば、疑っていても、そっぽを向いている者でも助かるはずなのに、なぜ助からないのかという疑問だと思います。

答え方としてはいろいろとあると思いますが、この質問について考えて見ますと、南無阿弥陀仏のお働きの大慈悲に対して、救われる側の方は何もする必要はないのですが、眺めていてはいけないということです。

眺めているというのは、「どうして○○な者は助からないのでしょうか?」というのは、観察者の視点です。
簡単な図にしますと。
(阿弥陀仏→助けられる人)
 ↑
 それを横から見ている人。

親鸞聖人がこのように教えられた、蓮如上人がこのように教えられた、また、○○という知識がこのように言われた、妙好人がこのように言っている。それらを全て、阿弥陀仏がある人を助けられたというのを横から眺めていては、私の事にはなりません。

この時点で、私一人を救わんが為に建てられた本願、成就された名号、報土に対して、当事者が、それは「ある人」の為に作られたのだ、こういう事例はどうでしょうか?あぁいう事例はどうでしょうか?あの人はこういうことで救われないのでしょうか?というようになると、阿弥陀仏の本願の相手が、私ではなく、「あの人」になってしまいます。

汝一心正念にして直に来たれ、我よく汝を護らん

というのが、阿弥陀仏のお喚び声です。「汝」というのは、「みんな」ではありません。「あの人」でもありません。「そこの人」でもありません。阿弥陀仏から言えば「お前のことだ」「貴方のことだ」「○○さん」と名指しで呼びかけておられるのです。

「疑っている人」や「そっぽを向いている人」にも「汝」とよびかけられています。しかし、質問されている内容からすると、自分では無い誰かによびかけられているように思われているのでしたら、「汝」と私めがけて喚ばれている本願を、私が聞いていないと言うことになります。

聞其名号 信心歓喜(本願成就文)

この文脈でいいますと、「汝一心正念にして直ちに来たれ、我よく汝を護らん」というよび声を聞いて信心歓喜するのですから、本願を聞くことが大事です。
教義的にどうかということも大事なのですが、本願そのものが私のために建てられたものですから、私が抜けては本願もぬけてしまいます。

私一人の為の本願を、私一人と聞いて下さい。ただ今「汝」とよびつづけておられるのですから、ただ今救われます。