安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「本願に向かいたくない自分を無理やりにでも本願に向かわせる為には『わが身の無常と罪悪をみていくこと』が必要なのかな?と思います。 なんにせよ信心決定したくない私には、今はこの方法しかないのかな・・・と思っています。(いがぐりさんのコメントより)

いがぐりさんよりコメントを頂きました。

いがぐり 2012/03/18 21:23
山も山さん、私は仏教を聞きたくありません。
でも、わが身の無常と罪悪をみた時(死んでもろくな所に行かんだろうな・・・。)と思い、
イヤイヤでも仏教を聞かなければな・・・と思います。
本願に向かいたくない自分を無理やりにでも本願に向かわせる為には『わが身の無常と罪悪をみていくこと』が必要なのかな?
と思います。 なんにせよ信心決定したくない私には、今はこの方法しかないのかな・・・と思っています。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20120315/1331802283#c1332073404

いろいろとご自分で思われて、「この方法が自分を法に向かわせるために良い」と思われてのことなのだと理解しました。しかし、仏法を聞きたくないといわれるいがぐりさんが、法にむかっていかれるのは、それだけ阿弥陀如来の願力が強いからです。その阿弥陀如来は、浄土往生の為に、南無阿弥陀仏となって私に働きかけられ、それをそのまま聞いて救われよと言われています。

いがぐりさんが、ご自分で「こんな自分はこうするしかない」と、無常と罪悪に向いておられることに対して、親鸞聖人は「行に迷い、信に惑っている」と言われています。

穢を捨て浄を欣ひ、行に迷ひ信に惑ひ、心昏く識寡く、悪重く障多きもの、ことに如来(釈尊)の発遣を仰ぎ、かならず最勝の直道に帰して、もつぱらこの行に奉へ、ただこの信を崇めよ。(教行信証総序・浄土真宗聖典(註釈版)P131)

http://goo.gl/Vem2Q

ここでは「穢を捨て浄を欣ひ、行に迷ひ信に惑ひ、心昏く識寡く、悪重く障多きもの」と言われて、いがぐりさんのコメントでいえば「死んでもろくな所にいかんだろうな…と穢を捨て浄土を願って(穢を捨て浄を欣ひ)」「わが身の無常と罪悪をみていく(行に迷い)」「これが必要(信に惑ひ)」にあたります。しかし、仮に罪悪や無常をとりつめたとしても、殆どの人はそれによって「大菩提心」が起きる人はありませんし、罪悪を止めることはできません。それを「心昏く識寡く、悪重く障多きもの」といわれています。

それらの人に対して、「ことに如来(釈尊)の発遣を仰ぎ」なさいと勧められています。ここでのお釈迦様の発遣とは、無常と罪悪を見つめることでも、善の勧めでもありません。「かならず最勝の直道に帰して、もつぱらこの行に奉へ、ただこの信を崇めよ」と言われています。

「最勝の直道」とは、最も勝れたさとりへの道ということで、阿弥陀仏の第十八願のことです。その阿弥陀仏の第十八願に「からなず」帰してといわれています。阿弥陀仏の第十八願にまかせよといわれています。
そして「もつぱらこの行に奉へ」とは、お釈迦様が発遣された阿弥陀仏の第十八願の行のことですから、南無阿弥陀仏の大行のことです。往生の行は南無阿弥陀仏にまかせよと、いわれています。「ただこの信を崇めよ」とは、阿弥陀仏の第十八願の信心を崇めよということです。他力信心になりなさいと勧められています。

親鸞聖人のこの教行信証総序のお言葉からいいますと、お釈迦様のお勧めは「無常と罪悪をみつめることではなく、直ちにこの第十八願の行信に帰命せよ」とのお勧めです。別の言葉で言えば「ただ今救うと喚びかけられる南無阿弥陀仏を直ちに聞きなさい」ということです。


いがぐりさんが「いやいや仏法を聞いている」者はだめなのではないかと思われるかも知れませんが、ただ今救うと阿弥陀仏は常によばれています。阿弥陀仏のお慈悲は、それこそ底がありません。まずは、救うと言われる南無阿弥陀仏を聞いて下さい。必ずただ今救われます。