安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

救われた人と、救われていない人の違いについて(よく聞かれる質問)

皆友さんの、:: 今、私を救ってくださる阿弥陀さま ::のコメントにあった質問ですが、よく聞かれる質問なので、エントリーとして書かせていただきます。

「救われた人は、死んだら阿弥陀さまの浄土に生まれ仏になります。」
と書かれていることについて、基本的なことで恐縮ですが、教えてもらえますか?

・「死んだら」というのは、心停止といいますか、からだのことなのでしょうか?

・「救われた人」というのは、何から救われたのでしょうか?

・救われていない人の、救われた人との違いは、どういう点なのでしょうか?(基本的なことですみませんさんのコメント)

http://amidabutu.jugem.jp/?eid=1#comments

「死んだら」というのは、一般に言う生命活動が停止したらということです。肉体の命がつきたらと言うことです。

救われた人というのは、「○○から救われた人」ではなく「阿弥陀仏の本願にただ今救われた人」という意味だと思います。私がブログにエントリーでよく書いている「救われて下さい」というのは、「阿弥陀仏の本願に救われて下さい」という意味で書いています。

また「○○から救われた」という言い方をするなら、生死流転から救われて往生定まったと言うことです。

救われていない人と、救われた人の違いは、どういう点かについては、阿弥陀仏に救われた人は、死んだ後、阿弥陀仏の浄土に往生させていただきますが、救われていない人は往生浄土できません。

御文章に対比して書かれてあるところがありますので、紹介します。

そのゆゑは、信心を決定せずは今度の報土の往生は不定なり。されば不信のひともすみやかに決定のこころをとるべし。人間は不定のさかひなり。極楽は常住の国なり。されば不定の人間にあらんよりも、常住の極楽をねがふべきものなり。されば当流には信心のかたをもつて先とせられたるそのゆゑをよくしらずは、いたづらごとなり。いそぎて安心決定して、浄土の往生をねがふべきなり。(御文章5帖目11通・御正忌

信心を決定するとは、阿弥陀仏の本願に救われる事です。また不信とは、阿弥陀仏に救われていない人のことです。
阿弥陀仏に救われなければ、この度死んで阿弥陀仏の報土に往生することはできないので、まだ阿弥陀仏に救われていない人もすみやかに信心決定しなさい。人間の命はいつつきるとも分からないものです。極楽は、それに対して変わらないさとりの世界です。だから、この人間世界よりも極楽に生まれたいと思うべきです。だから、浄土真宗では、信心が先ですよと教えられるそのいわれをよく知らなければ、徒事になってしまいます。急いで阿弥陀仏に救われ、浄土往生を願いなさいと言われています。

違うのはその一点で、それ以外に、同一人物で、救われる前と救われた後で、頭がよくなったり、健康になったり、判断力がついたりするとような違いはありません。