安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「私の心の内を正直に言えば、何かで心がある到達点にいたってはっとわかるんじゃないかと思っています」(頂いた質問)

阿弥陀仏の本願をそのまま聞く一つだと聞いております。しかし、私の心の内を正直に言えば、何かで心がある到達点にいたってはっとわかるんじゃないかと思っています。そして、その状態を待っている状態です。これでよいものかと思いながら、そうするしかないと思っています。(頂いた質問)

浄土真宗の信心を、そのような何かを突き詰めていった先に助かるものだというイメージをもつのは間違いです。


なぜなら、私の造作を必要としないのが他力の信心だからです。

されば安心といふ二字をば、「やすきこころ」とよめるはこのこころなり。さらになにの造作もなく一心一向に如来をたのみまゐらする信心ひとつにて、極楽に往生すべし。(御文章2帖目7通_五戒・易往)

http://goo.gl/zDw8X

ここで蓮如上人は「なにの造作もなく」と言われています。私の造作を必要としないのが、他力の信心であるといわれています。私の側では「ある到達点にいたる」必要も本来ないのが、他力の信心です。なにかを突き詰めて、それが破綻した時に獲られるという信心はあくまでも自力の信心の延長です。また、道徳の延長といってもよいと思います。そのような一般に考えられている信心と、他力の信心は違うのだということを親鸞聖人はご和讃でこのように言われています。

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一代諸教の信よりも
 弘願の信楽なほかたし
 難中之難とときたまひ
 無過此難とのべたまふ(浄土和讃_浄土真宗聖典 (註釈版) 第ニ版P568)

http://goo.gl/HjYFgy

お釈迦さまが生涯説かれていかれたいろいろな経典にある「信心」と「弘願の信楽」(他力の信心)は異なるのだと言われています。

どのように違うかといえば、多くの人の考える信心は「聞いて信じる」とか「聞いて助かる」という信心です。そのような聞いて「から」助かるような信心は他力の信心とはいいません。そのような、「聞いたら助かる」という信心とことなる、「助かることがすでに成就している」ことを聞くのが他力の信心です。


言い換えると「私は救われないものではないのか?」とか「私は救われ難いものだ」という心配や不安は、私自身にあるとしても、それこそが阿弥陀仏が本願を建てられる元となったのものなので、私の問題ではなくなります。「私の後生の一大事なのだから」と自分自身で考えるより先に、阿弥陀仏がすでに本願を建てるにあたって考えて下さったことなのだと聞けば、それはそのまま私の側の問題ではなく、阿弥陀仏の側での問題となります。


「救われ難い私がどうしたら救われるか?」という問いは、すでに阿弥陀仏が「救われ難い私をどうしたら助けることができるのか?」と考えられたことなのです。ですから仏願の生起本末を聞けば、私がことさら考えることではなくなります。

そのことを、蓮如上人の御一代記聞書ではこのようにいわれています。

一 思案の頂上と申すべきは、弥陀如来の五劫思惟の本願にすぎたることはなし。この御思案の道理に同心せば、仏に成るべし。同心とて別になし。機法一体の道理なりと[云々]。(御一代記聞書_浄土真宗聖典 (註釈版) 第ニ版P1311)

http://goo.gl/0yilRO

阿弥陀仏の五劫思惟の上に建てられたのが、阿弥陀仏の本願です。その本願の通りに成就されたのが南無阿弥陀仏です。ですから、南無阿弥陀仏の中には、私が救われるとか救われないとかいう問題はすでに解決済みの問題となっています。それゆえ「思案の頂上」といわれています。また、それがすでに解決されたことだとして、全ての人に与えられているものです。


南無阿弥陀仏のお働きは、すでに成就しているといってもはるか彼方にあるのではありません。すでに成就されたものがそのまま私に与えられているのです。そうなると、いつでも、どこでも、誰にでも、すでに救いの法は与えられています。それをそのまま聞き入れたのが他力の信心です。