ひろしさんよりコメントをいただきました、ありがとうございました。
親鸞会では私達は周りに陸の見えない広い海に溺れている。
http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20100115/1263508040#c1263545075
そして金や名誉や地位という丸太にしがみついている。
そして丸太はくるりと回転して裏切られる。
だから、まず信心決定という陸地の方角を教えて頂いて、その陸地に向かって一生懸命に泳ぎなさい、と言われます。
だからまずクロールで全力で泳ぎ(19願)、クロールでは疲れてしまうから平泳ぎで泳ぐ(20願)。
そして平泳ぎでもたどり着けなかった、と知らされた時に阿弥陀仏に救われる、という考え方をしていたと思います。
しかし私は泳ぐ力が無く、陸地の方角も分からずバタバタもがいているのでしょう。
ライフセイバーが溺れている人を助けようとしても、バタバタ暴れていたり丸太にしがみついていたら助けようがありませんね。
阿弥陀仏は溺れている私を見られて直ぐ助けようとされているのに、自分で泳げると自惚れて善に励んでバタバタしてみたり、自力という丸太にしがみついているのでしょうね。
頭では分かっているのですが。(ひろしさんのコメント)
出先の通信環境がよければ、追って追記しますが、取り急ぎコメントを読んでお尋ねしたいことがありましたので、書きます。
結論だけ書きますと、阿弥陀仏はライフセーバーではありません。ライフセーバーでしたら、おぼれる人と同じ人間同士ということになります。
阿弥陀仏の願力は無窮ですから、どんな暴れても必ず救うお働きがあります。
ひとつ気になりましたのは、「自力という丸太にしがみついているのでしょうね」といわれていましたが、自覚の上では違うということでしょうか?
「頭ではわかっている」ものと、実際の感じは違うとすれば、実際はどうなのかと思いました。
重ねてすみませんが、お尋ねします。