安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「こうしたらいいよ」は他人事になってしまいますの追記(こすたんさんのコメント)

こすたんさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

「他人事になってしまう」とおっしゃっているのは阿弥陀仏に目が向かないというか、阿弥陀仏の救いを我が事と思わないということでしょうか。
阿弥陀仏の救いを我が事と思える人ほど、早く救われるということでしょうか。(こすたんさんのコメント)

回答します。
2010-1-13のエントリーについてのおたずねです。
「こうしたらいいよ、というアドバイスは他人事になってしまいます。」と書いたことについて、追記として書きます。
こう書いたのは、阿弥陀仏と私の間柄は、決して他人同士の関係ではないと言いたかったからです。苦しみ悩む人に、こうしたらよいよとアドバイスを送るだけではなく、私の苦しみは、阿弥陀仏の苦しみであり、自分の苦しみとなれば、自分が苦しむのと同じように悩んで下されるということです。
そして、共に悩むだけではなく、その苦しみを救って下されると言うことです。
マラソンや駅伝の声援で「頑張れー」というのは、代わりに走ることができないから、声を送るしかないからです。いわゆる、身代わりになれないことには、そうするより他ありません。

しかるに諸仏の大悲は苦あるひとにおいてす、心ひとへに常没の衆生を愍念したまふ。ここをもつて勧めて浄土に帰せしむ。また水に溺れたる人のごときは、すみやかにすべからくひとへに救ふべし、岸上のひと、なんぞ済ふを用ゐるをなさん。(善導大師・観無量寿経疏・玄義分

岸で溺れる私をみて、「可哀想だが、自分でなんとかしてもらうより他はないのだ」と思われれば、助けにこられません。往生に関しては、マラソンのように自分で走って
いくことができないのが私です。
岸で溺れる人をみて、まず飛び込んで助けようとされるのは、私に泳いで岸に渡る力が無いからです。加えて、苦しむ私は、阿弥陀仏にとって他人ではなく我が事なのです。
溺れる私を飛び込んで助けて下されると言うことは、私の代わりに泳いで下されるということです。

「往生は一人一人のしのぎ」と聞くと、何か孤独なことで、自分でなんとかしなければならないのではないかと思う人もありますが、一人一人に阿弥陀仏はよりそって、なんとか助けようと働きかけておられます。それは、横で見ているから自分でなんとかしなさいということではありません。お前に代わってかならず浄土へ連れて行くぞとのよびかけが、南無阿弥陀仏なのです。