安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「法を仰ぐ」の「仰ぐ」とは(Kさんのコメント)

ちょっと恥ずかしいのですが「仰ぐ」という日本語がよくわかりません、といいますか、「尊敬する」とか「敬う」という概念が正直よく分からないのです。形として頭を下げたり丁寧な態度をとったりするのは分かりますが、心はどんなものなのでしょうか?そんなものあるのかと思うくらいです。
前にも書いたか忘れましたが、私には宗教心というようなものはほとんど全く理解できませんし、人が偉い偉くないという概念もあまり意味が分からないです。
このこと自体はあまり問題と思ってないのですが、言葉が通じにくいことはあるかもしれません。(Kさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20100111/1263159706#c1263313503

回答します。
「法を仰ぐ」とか「仰ぐ」という言葉自体は、讃仰と言う意味で使われますので、尊く思う、敬うという意味です。
そこで「敬う」とか「尊敬する」という概念がよく分からないということについては、私自身もよくわからない言葉でした。
そこで御文章の中で「仰ぐ」と書かれた場所から考えました。

これによりて阿弥陀如来の他力本願と申すは、すでに末代今の時の罪ふかき機を本としてすくひたまふがゆゑに、在家止住のわれらごときのためには相応したる他力の本願なり。あら、ありがたの弥陀如来の誓願や、あら、ありがたの釈迦如来の金言や。仰ぐべし、信ずべし。
しかれば、いふところのごとくこころえたらん人々は、これまことに当流の信心を決定したる念仏行者のすがたなるべし。(御文章3帖目3通・河尻性光

末代の罪深き者を目当てとして救う阿弥陀仏の本願であると聞いて、あら、ありがたの弥陀如来の誓願や、あら、ありがたの釈迦如来の金言や。仰ぐべし、信ずべしといわれています。
仰ぐというのは、「自分一人を助けるための本願であることを有り難く感謝する」ことであり、信ずることです。
敬うとか、尊敬すると言う言葉を使わずに説明するなら、阿弥陀仏のお働きや、ご苦労に頭が下がる思いを、仰ぐと言われているのです。人間に対して思うことが今まで無かったとしても、阿弥陀仏のお徳には頭が下がるので、それをもって仰ぐとは、そういうことかと思われれば良いのではないかと思います。

大慈大悲の阿弥陀仏ですから、阿弥陀仏の本願と、それを教えられたお釈迦様の金言は、仰ぐ以外に無く、あれこれ言わずにそのまま信じ、救われる以外にありません。
「仰ぐ」という言葉が分からなくても、阿弥陀仏に救われた姿が、法を仰ぐ姿です。