安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

五重の義とは?(蓮如上人遺文より)2回目

前回のエントリーの続きです。

大まかに蓮如上人遺文の意味を書いてそれぞれについて、改めて解説をしていきます。

蓮如上人遺文(五重の義解説部分・前回の続き)

二には遇善知識なり。こころは宿善のひとはかならず善知識にあふて法をきく。(蓮如上人遺文 (1948年)_稲葉昌丸編集_P530-P533)

二つには、善知識に遇うことである。阿弥陀仏の法にあう人は必ず善知識にあって法を聞く。

三つには光明に摂取せらる。善知識にあふて本願のおこりをきくとき、弥陀如来もとより無碍光仏とあらはれたまふ故に、行者の心想のうちに影現したまふなり。このとき無始已来輪転妄業の重罪、摂取の心光に照護せられて、転じて功徳なり。すなはち往生の大益を証得すなり。

三つには光明に摂め取られる。善知識にあって阿弥陀仏の本願のいわれを聞く時、阿弥陀仏は無碍光仏とあらわれられ何ものも障りなく照らしてくださるので、行者の心のなかを照らしてくださいます。このとき無始より作ってきた悪業の重い罪は、摂取の心光に照らされて、転じて功徳になる。往生浄土の大変な利益をうる。

四つには信心獲得す。さきの光明智相に行者の心身を摂取せらるるゆへに、はからざるに信心を生ず。これさらに行者の信にあらず。

四つには信心獲得する。先に述べた光明によって行者が摂め取られるから、自らの計らいは不要で信心を生ずる。これはまったく行者のおこした信心ではない。

五にはさきの信心より催促せられて、口に名号をとなふ。これまたかつて行者の行にあらず。仏の無碍智より信心を生じ信より名号を生ぜしむ。この信心と名号とは仏恩報謝のために仏智よりもよほされたてまつりて行ずるなり。

五つには、先に挙げた信心に催されて口に南無阿弥陀仏と称える。これもまた行者の行ではない。阿弥陀仏の智慧により信心を生じ、その信心から南無阿弥陀仏と称えるのである。この信心と名号(念仏)は仏恩報謝のために阿弥陀仏よりさし向けられて行ずるものである。

この念仏をもて往生のためとはおもふべからず、そのゆへに三重の光明にてらされたてまつるとき、仏智は摂して凡心にいり、凡心はさって仏心に帰す。仏智難思の光明に帰托したまふとき、往生の大益を証得しぬるうへにはみづからも信じ、人をおしへても信ぜしむるも信行ともに仏恩報謝のつとめなり。

この念仏を称えた功徳で往生するとは思ってはならない。その理由は光明に照らされた時、阿弥陀仏の智慧は私の心に入り、私の心は阿弥陀仏の仰せに従う。阿弥陀仏のお働きにおまかせするとき、往生浄土する大変な利益をうることを自分も信じ、人に教えて信じる身になることもすべて仏恩報謝である。

いま宿善にもよほされて、善知識にあふてこのことはりをきゝ、知識にあふとき摂取の光益におさめとられまつりて、光明智相より名号をもよほされたてまつりて、釈迦弥陀十方諸仏の恩徳を報謝したてまつるとこゝろうべし。名号をとなへて往生のためとおもむくべからず。しかれば往生は如来の摂取にまかせ、名号をば仏恩報謝にそなふべし。

いま宿善によって、善知識にあって本願のいわれを聞き、阿弥陀仏の摂取の光明におさめとられて、阿弥陀仏のお働きによって念仏を称え、阿弥陀仏・釈迦如来・十方諸仏のご恩を報謝するとこころえるものである。念仏するのは浄土往生をする手段と思ってはならない。つまりは、浄土往生は阿弥陀如来のお働きにまかせ、念仏は仏恩報謝に称えるものである。

この信行はかつて行者の信にあらず、行者の行にあらず、無碍光仏の大信大行なり。この信行をうれば生死即涅槃なり。煩悩すなはち菩提なり。生死即涅槃、煩悩即菩提のいわれを、この土にしてわれとさとらんとはげむを聖道門といふ。権者修行の法門なり。仏智帰托によりて信行をうればかの土にいたりて大涅槃のさとりをひらく。これを他力というなり。

この信心・念仏は行者の信心でも行者の行でもない、阿弥陀仏の大信であり大行である。この信心・念仏をえたら生死即涅槃である。煩悩即菩提である。そのいわれを生きている間に悟ろうと修行するのが聖道門という。ただ人でなない人が修行する教えである。阿弥陀仏のお働きにおまかせして信心・念仏をえたならば浄土に往生して仏のさとりをひらく。これを他力という。


書いてみると、思ったより長文になったので、それぞれの「宿善」「善知識」「光明」「信心」「名号」については、次回のエントリーに書きます。よろしくお願いします。